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番外編『亀之輔さんは、「鉛管踊り」』

別館G.M.作業室です。本日は、佐伯の描画ポイント問題を、より深く捉えるという高邁な心構えの下で(爆!)、佐伯の下落合風景の一つ、「森たさんのトナリ」で描かれた里見勝蔵の家のトナリに居た森田亀之助の(佐伯が下落合風景を描いた時期には渡欧中でしたが…)美校生時代のエピソードを拾ってみました。(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-10-24
  森田亀之輔、1883年1月東京生れ。
  1906年、東京美術学校西洋画科を卒業後、助手になる。
  1909年から1914年にかけてはバーナード・リーチのもとで、英文学・美術を学ぶ。
  海外の芸術の情報の紹介に努め、
  1925年から1927年に渡欧(この時、佐伯の世話になったという)。 以下、略。
さて、その森田亀之輔が、西洋画科第2学年だった1903年11月3日のこと。東京美術学校設立15年を記念した美術祭が行われています。岡倉天心追放の動揺を静めた後の、全校挙げての祭に、来校者は3万人。式典では諸々の神の降神があったとか(因みに祭神はというと、日本画科が狩野芳崖、西洋画科がラファエル、彫刻科が野見宿禰、鋳金科が石凝姥命、漆工科が本阿弥光悦、などなど)。展示は、各科の祭神の関連資料と、河口慧海(1903年5月帰国)招来のチベットの物品。
そして、余興の部があり、演目数にして26の仮装行列が行われています。その午後の部の一番目に登場するのが、西洋画科会員有志(辻永、森田亀之輔、山下新太郎、和田三造ら計7名)による「鉛管踊」です。

…「鉛管(絵具のチューブ)」に扮して踊った、のだそうです。ニコレットの白い小父さんのような怪しさ。森田亀之輔は、あの「鉛管」の中で「踊った」のですよね。
金山平三が美校に入学するのは、翌1904年ですから、残念ながら「鉛管踊」を見そこなった、というか、フラフラ踊りを見ずに済んだ、というべきか。しかし、他の演目の、埃及行列、巴里美術学生行列、小督、参内行列などのタイトルから予想されるリアルな力作よりも、私は、この絵具チューブのどうしようもない感じが、ちょっと好きです。謹厳な風貌の、竹澤基による『森田亀之助像』ですが、森田先生も、多方面にご活躍されていたのかもしれません。


今は昔の「二ノ坂」の検分

別館G.M.作業室です。
本館の『「遠望の岡?』は二ノ坂だった。』を受けて、二ノ坂について検分をしたいと思います。
現在の「獅子吼会西・金山アトリエ北」の「くの字の道」は、1926年発行の事情明細図に載っていない新道ではないか、という私の仮説には、C.P.さまもマイケルさんも同意見というお考えですが、「遠望の岡?」描画ポイントは、お二人共「二ノ坂」である、とおっしゃられます。
『(「遠望の岡」の巻)』で私の立てた仮説、その後廃道となった「くの字の道」と、そこから現・獅子吼会吹き抜けマンションの南南東方向を望む「遠望の岡」描画ポイントに関して、まだ決定的な否定要素は出てきていないとは思っています。でも、かといって、目下(というよりも、きっと、いつまでも)その存在を証明する材料が無いのも事実です。
そこで、本館がupされた「二ノ坂」描画ポイントに関して、よく考えてみる事にいたしました。

佐伯の「遠望の岡?」の絵です。

現在の「二ノ坂」を、この絵の道の方向に留意して、写してみました。道の右端に、かなり寄った位置から描いています。イーゼルは、平地のような按配には立てにくそうな坂道です。道の右側にある「側溝」と「新東西道」の入口は、今では二ノ坂の道の幅の中に含まれていると考えました。絵の中の新東西道の入口には、ちょっと邪魔な線状のでっぱりがありますが、二ノ坂の斜面と新東西道の繋ぎ目のところは、今も無理して繋いだ感じになっています(でも、変なでっぱりです)。絵で、道の正面の突き当たりのようにも見えるところ(あるいは道全体)が、側溝方向に下がっているのが、現状との一番の違いでしょうか。しかし、そのころの地形を考えると側溝のあたりが低くなっていそうでもあり、その後修正があったと見ることができるように思います。

絵に、現在の道を埋め込んでみました。正面の建物の隙間から新宿方面を望むと、ほぼ、水平線の高さが一致しそうです。新宿東口の「ほてい屋」デパートも、絵の中央に来そうです。描画ポイントから道の突き当たりまでの距離の取り方は、佐伯の他の絵と比べると、意外に短いように感じます。左の竹垣の家、一軒分程度でしょうか。この門のある家が、1926年の事情明細図にあるものではないかという事は、「(くの字の塀の巻)」の付図に記しました。
道の向うの小さな家々は、1927年に中井駅が開設される方面にあり、事情明細図でも、かなり人家が密集していた事が伺えます。この道との高度差も、適当な感じでしょうか。


これらの状況を総合して考えると、ここを「遠望の岡?」描画ポイントとする必要条件は、ほぼ揃っているといえます。それでも、まだ引っ掛かるのは、道にあれだけ強いパースペクティヴ(遠近感)があるのに、「側溝」が、ほとんど等幅のまま伸びている事でしょうか。その幅も左の竹垣と比べて広すぎるような…そもそも、絵ではあるのですけれど。また、同様の条件の場所が他にないといえるか、という点です。
仮に佐伯が1926年秋にこの絵を描いたとして、丁度その頃発行された事情明細図に書き込まれている諸「事情」との一致点があったり無かったりする問題は、判断の難しい所ですが、竹垣の家が事情明細図に記載されている家であったとしたら、やはり面白いです。この頃、改変があったであろう二ノ坂は、旧道の時この家の北東をとおり、新道になると家の南西をとおるようになる筈なのですが(「くの字の塀」の巻の「二ノ坂・新旧の道」の画像等をご参照下さい)、何故そのような大掛かりな変化が必要とされたのでしょうか。
二ノ坂から、三ノ坂にかけての宅地化を控えたこの時期、斜面の雛壇化がなされましたが、同時に上下水の計画もなされた筈です。そして、水の流れのために下水の水路は、このような急な斜面において家々より低く設置される、と考えてみました。新しい二ノ坂が造られる必然性は、このあたりに見出せないでしょうか。そうすると、斜面上の宅地開発に伴う下水工事という、とても目新しい出来事を、佐伯は、まさに描いている事になります。
下水工事の問題は、三ノ坂が、この頃、旧道を廃止し新たに地面を掘り下げて造られたのではないかと、敢えて推測する事にも繋がってきます。つまり、「くの字の道」の巻に記した私の描画ポイント案では、道の右手にある茶色い部分が、ずっと低い位置にある現在の三ノ坂にあたるもので、茶色の右に沿ってある白い細長いものが、側溝ということになります。そして、先にある電信柱のあたりで、三ノ坂の傾斜が急に変わるので、あたかも道が途切れたように見える事になります。私には、どうも、そう見えてしまうのです。遠景に関しても、こちらのポイントでも大きな問題は無い様に思います。しかし、竹垣の家には実は弱っています。この位置に、事情明細図にない、このような家が既にあったと考える事にも、その後の開発の先駆けとしてあったと考える事にも、なんだか無理が感じられるのです…。うーん。というのが、今日の私の考察です。

1933淀橋区全図


仮説『くの字の道』(「くの字の塀」の巻)

別館G.M.作業室です。
8月22日に本館がupされた記事からはじまった、佐伯祐三の絵の描画ポイントをめぐる検討は、「二ノ坂」と「くの字カーブの道」をめぐる面白い展開となってきましたが、参照図版が多くなりすぎてきたので、本日は新たに、仮説『くの字の道』(「くの字の塀」の巻)、の頁をつくることにいたしました。
「くの字の塀」?また間違い?と思われるかもしれませんが(笑)、あらら、これ塀ではありませんか?というのが、今日の私の発見なのです。

仮称「くの字の塀」

別館の解釈

コンディションの悪いモノクロ写真です。C.P.さまは、「崖淵の上を走るカギ状に折れた道」と表現され、私も、昨日までは、そのように考えていました。しかし、改めて詳細に見てみると、この「く」の字の曲がった所に、丸い飾りがついた一対の門柱があるではありませんか。そうなると、これは「塀」ということになり、絵全体のスケール感覚も、少し変わってきます。
周囲の様子は判然としないけれど、正面の大きな家の手前で落ち込む地形にはなっているようです。また、正面の家から、その左の家へ向って下り坂になっているのも確実でしょう。また、塀の右側が道になっているようにも見えるものの、くの字の曲がり方から考えると、塀の左側が道で、右側は右手にある家の庭の一部と見るべきでしょうか。それにしては、塀のすぐ外、通行の邪魔になる所に、なにか大きなものがあったりします。また、佐伯は塀の中にいることになります。まるで、もう使われていない道と、廃屋となって自由に侵入してイーゼルを立てられる庭であるかのように。(爆!)

1936年の空中写真を使って、別館の描画ポイントの試案を書いてみました。ご検討下さると幸いです。



追記。

二ノ坂の階段は…

1921二の坂・旧道

1929二の坂・新道

二の坂・新旧の道

推定・事情明細図の斜面上の家=A(門を赤丸で囲む)
  (Bは「二ノ坂・遠望の岡」の左手の竹垣の家?)

推定・「くの字の塀」描画ポイント(黄色ないし薄黄色の丸)
  (C=画面中央の家の方向。D=それより下にある左手の家の方向)
  (緑の曲線は、同所の1929年地形図の等高線)

推定・画面に含まれている雛壇(描画ポイントのある斜面から透視)
  (左のオレンジの下辺のラインはDの雛壇。
   中央の海老茶の下辺のラインはCの雛壇。
   右の緑の面は、画角の右外に金山邸のある雛壇の横壁。
   黄色は二ノ坂の下に立つ電信柱?)


仮説『くの字の道』(「遠望の岡」の巻)/付・1936年空中写真の金山邸

別館、G.M.作業室です。
本館の『この「く」の字カーブには見覚えが…。』等の御考察とマイケルさんのコメントを念頭におきながら、「くの字の道」に関する仮説、ならびに佐伯の「遠望の岡(?)」の描画ポイントについての私の考えを記したいと思います。
私の立場は、事情明細図の謎の道はあった、しかし三ノ坂ではない、金山邸はあった、です。旧C.P.説とも、マイケルさん説とも違いそうですが、どうなることでしょう…!

では、まず「遠望の岡」「くの字カーブの道」「二ノ坂」に関わる場所の概観を見たいと思います。

佐伯が下落合風景を描いたのは、1926・1927年、現・西武新宿線が開通したのは1927年春ですが、この1921年発行の一万分の一地形図に、二ノ坂(赤い四角の付いている道)と四ノ坂(左端の道)はありますが、三ノ坂は見当たりません。中の道(下方の道)のすぐ上(北)の等高線は標高25mで、そこから2.5m毎の等高線が5本つづき、30m程の間に12.5m高度が上がる急坂となっています。その上は高度差2.5m以内の比較的なだらかな丘となり、北方の道に至る手前で、やや下りになっています。あまりの急坂のためか、南の傾斜地に樹木が植えられていることしか確認できない、宅地化されていない一帯のようです。

それが、1929年発行の地形図では、こうなります。1936年の空中写真、現在の道筋とも殆ど変わらない道が整っていることが分かります。
この急激な道路整備、宅地化の行われた期間の中に、佐伯の描画期が含まれています。
さて、本館の「遠望の岡」「くの字カーブ」で取りあげた道を、緑の線で示しました。(ピンクの線は、後述しますが、コンクリート等による塀です。)
この緑の道について、1926年発行の事情明細図で考えると、どうなるでしょうか。

私は、画面中央の「字」の字があるブロックの中に緑の破線で示した位置にあるのではないかと、考えています。その理由の一つは、先程から赤い四角を置いてある、二ノ坂の左(西)側へふくらんだ曲がり方のクセと、東西方向に走る道との関係にあります。事情明細図は、製図としては不正確でも、地域の「事情」を知るためには役立つように出来ている地図といえます。道の表現にも問題があるものの、このクセに関しては、他の諸地図・写真と比べ、注目出来るという仮説を立てています。
二ノ坂など、現在と同一視出来る道もありますが、三ノ坂の一部と音井・小沢邸南の道については、現在は無い、と見ています。べつの地図でも、同所を見てみます。

紫の道が、現在とは異なった所のある道と思われます。この地図では、三ノ坂である筈の道に明らかなクランクがあります。事情明細図の一年前の発行ですが、一致するところ、異なるところ、2080番地も含め、色々あります。
この地図と、先程載せた1929年の地形図を、ちょっと遊んで重ねてみました。

二ノ坂・四ノ坂と南北にある道の交点を重ねてあります(茶色の点)。「くの字」の道の両端が、緑の点。二ノ坂と三ノ坂の間のコンクリートの塀の両端が、ピンクの点です。
1925年の地図には、地形図のような形の正確さはないので、乱暴と言えば乱暴ですが、緑の点の先程の推定との一致は、全体の状況から見て、注目してよいのではと思います。また、ピンクのコンクリートの塀が、1925年の地図では道であったところと一致している点にも、注目したいと思います。
さて、このピンクのコンクリートの塀は(塀というより護壁と言った方が適当か?)、現在もある、金山邸や、獅子吼会の吹き抜けマンションの南面下にあるものとなります。地形図ではやや緩い斜面に見えますが、南の急斜面の余波があった可能性もあります。しかし、兎に角、以前はなだらかに周囲につづいていたであろう丘に、コンクリートで階段状の整地がなされた訳です。1929年の落合全体を見ても、まだ類例の少ない開発です。中井駅に近く、かつ急な斜面があったからでしょうか。
階段状の整地がなされる前は、中の道に落ち込んで行く様な地形の手前に、等高線にほぼ沿った道があった、そこから斜面を直降する道も、二ノ坂と四ノ坂の距離を考えればあっても不思議ではない(所有者の違いなどの理由があれば、なおのこと、できるかもしれない)、と考えています。また、コンクリーの護壁は三ノ坂の方まで入り込んでいます。三ノ坂の東と西では恐らく東の方が高くなっており、この護壁を作って整地した際、現在の中井2丁目13番地より低い位置をとおる三ノ坂が出来たのです。
次に、一応、三ノ坂のようにも見える、謎の道の護壁の上の部分はどうなっているのだ、という問題が出てきます。私は、それを以下のように考えます。

1936年の空中写真を見ると、護壁と推定されるピンクの線と、金山邸などのあるブロックに黄色い線で示した辺との間に、樹々とその影のような、ものが写っています。これは、恐らく、傾斜地ないし、盛り土をした地盤の弱い土地ではないでしょうか。(それから、西日で南北方向に流れる屋根は、はっきりは見えませんが、私にはこの写真に金山邸が写っているように感じられます。)整地前の謎の道は、この斜面より、わずかに高くて平坦に近い位置で、「くの字の道」の西側を北上していたと思われます。事情明細図や1925年の地図では、少し直角より開いて曲がる道に見えます。その先の、事情明細図と1925年の地図で、意見の分かれている(?)あたりについては、私には、どういうことやら、さっぱり分かりません。
「くの字の道」は、このコンクリートによる護壁工事と、ほぼ同時に造られたのではないでしょうか。丘の上にも開発ブームがあったでしょうし、また、上記の無くなってしまった道の代わりの道も必要だったと思います。
但し、この考え方の場合、事情明細図と1925年の地図で、「2015」番地とされている場所が、1929年以降では、「2080」番地になってしまいます。しかし、1929年以降「2015」番地になった所は、それまで、「2016・2017・2018」番地だったのです。この件については、「2080」「2096」番地と一緒に、C.P.さまが調べて下さいますね!
さて、この辺で、冒頭の絵の描画ポイントの問題に入ります。

描画ポイントと視線の中心線は、およそブルーの線上にあります。謎の道は、薄いブルーの中にあると考えられますが、更に佐伯の絵から考えると、この視線の中心線のすぐ東となります。薄いピンクの場所は、金山邸のブロックから一段下がった雛壇状に整形された宅地用地です。謎の道は、雛壇になる前の、急に勾配が変わる、この坂を直降していたと思われます。佐伯がこの絵を描いたのは、まさに、雛壇状の整形工事が進行している折です。
画角は、両側の細めのブルーの線で示してあります。片側では、護壁の下に出来る三ノ坂と、その西側に整形される宅地が、少し見えます。もう一方では、金山邸が入ってしまう筈ですが、描画ポイントのすぐそば、空中写真の「く」の字のあたりにある家の竹の(?)垣根に遮られて見えません。

絵のブルーの部分が、謎の道だった所です。つきあたりは、もともと急激に傾斜が変わっていたか、雛壇状の整地工事の掘削がはじまったためか、突然先がなくなるように見えます(左へ曲がる感じはあるけれど)。むこうには、新宿東口方面を遠望するパノラマが広がります。手前には、傾斜地の下の家の屋根がのぞきます。画面で謎の道の右手になる部分はおそらく斜面です。謎の道と一体化して見えるため、とても幅の広い道に見えます。しかし、竹垣との大きさの関係を考えると、ここにあったであろう道の幅としては、それでは広すぎるように感じます。謎の道の先端にいる人物の大きさは、明らかにデフォルメがあると判断しますが、佐伯は遠景の人物は小さめに描くけれど、下落合風景の道や家の関係については、かなり実景に忠実だった、と今までのC.P.さまの御考察からも想定されます。その下は三ノ坂になる所と、三ノ坂の西側の宅地用地の小さな雛壇と思われます。
私がC.P.さまの「遠望の岡」描画ポイント(本日からは旧・特定ポイント、とすべきなようですが)に微妙な違和感をもったのは、謎の道の先が無い感じを、一番の理由としています。そこで、かなりの推論を重ねました。そして、こんな風に思っているのですが、この仮説に何やら大きな不具合あるのでしょうか?皆様のお考えを伺えると有難いです。

付・1936空中写真の金山邸(文化村上空)
別館が、空中写真の金山邸の部分について、どう読んだかを、記し添えます。


もとになる写真


別館の解釈

破風が東西方向を向いている金山邸の母屋のシルエットと稜線を、小豆色で示します。(北向きの屋根の方が広い感じもでていると思います。)
その南の方の不定形の形は、植物と考えます(みどり色)。
家の北側にかかる少し濃いグレーの斑は(水色の部分)、本館の「上落合上空」の写真を参照すると判然としなくなるので、実体を伴わない不明の着色と考えます。

マイケルさんは、どう読まれたのでしょう?


『「道」の「道」』考

別館G.M.作業室へ、ようこそ。
さて、本館の『佐伯祐三は第二文化村周辺がお好き。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-02-26)と『「道」の下に「富永醫院」の看板があった。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-07-27)とをふまえ、
問題の「道」の絵の、左に入る「道」について検討いたします。

本館C.P.さまの描画ポイントは、1947年の空中写真で考えると、おおよそ下記の様になるかと思います。

(…もう少し下がって、右の画角が広がるか…)
でも、この場合、「富永醫院」の△看板がある筈の、左手前の鈍角の角が、絵では鋭角に見えてしまっているようです。また、中央の道のカーブが、空中写真では右カーブというより、気持ちS字になっているようです。

私は、この「道」の絵の、左に入る「道」は、下の写真の指印が指す道ではないか、と考えます。

この場合、描画ポイントを考えると、以下のようになります。

佐伯の絵の、左へ入る「道」が左手前に来る様子と、こちらであれば良く一致すると思います。道のカーブも、すっきり右になります。つまり、またもや、描画ポイントを一寸動かしましょうよ、という提案となったのです。

余分な話ですが、この道のすぐ先にある、正方形の何かの敷地跡が、火の見櫓ではないでしょうか。佐伯の絵の画角の左外すぐにあることになります。
地形図(1921年/1929年でも等高線に大きな変化無し)で、これを見ると、

火の見櫓を緑の丸印とすると、こうなります。別の位置でも良いですが、佐伯の絵に入らず、かつ1947年の焼け跡写真で何かがあったらしく見えるところで、一番高度が高い場所は、ここです。佐伯は、「下落合でも有数の火の見櫓」の目の前に立ち、敢えてそれを僅かに外して描いたのでは、と感じるのです。

追加資料(060729)
1944年撮影の空中写真と、そこに見える(?)建物

左の正方形のようなシルエットが、火の見櫓か。
その右の長方形のシルエットはある程度高さがあり、ほぼ等高線に沿って建つ大きめの建物か(1936年には無いもの)。
?の所には、白く光る屋根の建物。絵の中の赤い屋根の家か。


『商店が途切れる目白通りはどこ?』補遺

別館G.M.作業室です。ご無沙汰お許し下さい。(p.c.とスキャナが繋がらないなどという、オバカな理由で、アライアンスが遅滞していました。)
さて今日は、『目白通り…』について、まだ検討していなかった資料をupして、考察をすすめたいと思います。

この地図は、「一万分一地形図 大正十年第二回修正測図同十四年部分修正」です。1926年7月30日に発行されています。つまり、内容としては1925年、発行日から見ると、佐伯祐三の下落合風景(1926年の春以降、1927年の夏以前の滞日期に描かれている)を考察する資料として良い感じのものなのです。(実は、目白文化村や第三府営住宅が全く書き入れられていなかったり等、1926年の状況を反映しているとは考えられない事は目につきますが。)

では、この佐伯の絵の、やや右の方に描かれている家と描画ポイントをマークしながら、問題点を整理していきます。
本館C.P.さまは、地形図の赤紫の丸の辺に、この家があるとされています。一方、別館の私は、藍色の丸の方ではないかといたしました。指印は、それぞれの描画ポイントです。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-06-08 http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-08
(前回の議論の過程で、東西逆転問題が生じましたが、ひとまず凍結いたします。道のカーブの具合も考慮すると、簡単に光の向きだけを重視することもできない、とも思い…。)
事情明細図でも、おさらいすると、以下の通りとなります。

事情明細図によって、二つの描画ポイントから見た目白通りの商店街の様子を比べた時は、若干、西寄りの私のポイントの方が商店が少ない感じ、商店名の記入が少ない感じで、絵に近い様でした。とはいえ、実際にどのような店舗があったのかは不明である、との本館の御指摘も、事情明細図のあり方から見て尤もで、決め手を欠いていました。
しかし、地形図によって、描画ポイントから見た目白通りの様子を捉えると、両者は随分異なってきます。
本館の描画ポイント(赤紫の指)から見ると、目白通りには、既に家屋が建ち並んでいます。地形図にこのように書き込まれているということは、1925年以前に、既に、しっかりした家屋ないし店があった、ということではないでしょうか。地形図への家の書き込みが遅れる、ということはあっても、無いものを書くとは、通常考えられません。
一方、私の描画ポイント(藍色の指)から見ると、目白通りに家はありません。佐伯が絵を描いた時点とのタイム・ラグを考慮しても、注目すべき状態と考えます。
更に、もう一つの事に、私は注目したいのです。それは、藍色の指の指す辺の道に付いている符号です。

緑の丸印は、「並木」です。赤いポツポツのついた線は、恐らく「行樹」です。恐らく、と歯切れが悪いのは、よく似た符号に、「牆(土ベイ)」があるからです。しかし、1910年発行の地形図で、この辺に「並木」があることなどから、「行樹」とすべきではないかと、私は考えます。(ところで、「並木」と「行樹」の違いは一体なんなんでしょう?)
佐伯の絵に戻ります。道の右手に描かれているのは、まさに「並木」か「行樹」です。この一致は重要だと考えます。すると、地形図の藍色の丸のある所の家のシルエットも、絵の家を、簡略化して書き込んだ様にも思えます。謎の「落合医院」なのでしょうか。家の周りにある緑の丸っこい線は「叢樹」の符号です。これも絵と一致します。地形図をよく見ると等高線も分かりますが、画面中央の人の辺が一番高くなるごくゆるやかな坂のようで、これも合っていそうです。
1926年発行の地形図の検討をしてみて、藍色ポイントからなら、これだけ状況の一致が認められる、とG.M.は主張するのでした。


字には気ままな、佐伯祐三

別館、G.M.作業室です。本館『佐伯「制作メモ」を画像処理すると…。』から、ようこそ。
さて、佐伯の字は、結構気ままです。よく見ると、馴染んでくるクセは、ありそうですが。では「佐」の字のツクリにも注目しながら、御覧下さい。

 1920年(?)山田新一宛

 1924年、佐伯祐正宛

 1927年、神吉逸治宛

おまけに、学生時代に御親友の山田新一に出した呆れる手紙も載せてしまいます。大阪に居て、自分で展覧会に出品できない作品についての指示書きです。

  
拝啓 山田君額ブチヤニコノ名詞ヲモッテ行ッテ下サイ)
只今は御葉書を有難う 実にさうでしたね
 静物  二百五十圓
 自画像 非売品
 風景  二百圓
「題」は右のままにて結構 サインは君がして下さい すみませんけれど小サク「祐」と云ふ字をかいて下さい 色はバーミリオン
サテ十二号の額椽代(多分 三圓五十銭)を額ブチヤにはらって下さい
そして残りで枠をかつて下さい 残ったらもう使つてしまつて下さい たらなかつたらたしておいて下さい 先日の残金の事甚恐れ入りました もうそんな事はよしませう オバサン画ノ具は私がかへつてからしはらいます(…つづく)

     (山田新一『素顔の佐伯祐三』 中央公論美術出版より)


『商店が途切れる目白通りはどこ?』考

別館、G.M.作業室です。
では、まず本館特定の、描画ポイントのどこに違和感があるかを、図を使って御説明します。

   

この画角の特定のポイントは、1926年の事情明細図にある商店が視野に入らない事です。すなわち、「八百?」は右手外にあり、左手は目白通りの北辺ギリギリ、中央線より右側に洋館が入る…。一見、条件をクリアしているように見えます。
しかし、洋館(空中写真で特定されたのは、事情明細図の四番地の方?)の北の目白通り沿いの店が、この角度では見えてしまうと思うのです(薄茶色が店)。また、道が水色の丸のあたりから右カーブしている事が、絵に反映されていません。
私の想定した洋館は、「落合医院」です。1936年の空中写真では、既に建替えられているようで、シルエットを確認できないのが痛いですが、絵のような洋館であった可能性が、府営住宅よりは高いと考えます。落合医院の東北にも目白通り沿いに店がありますが、この角度ならば、なんとか樹々の中に入ってしまいそうです。画角が狭い事による奥行き感がでていることも、重要な特徴です。また、この描画ポイントから望む目白通りは、遥か向うで右折し、絵と一致します。立ち位置は、長崎側の四一四二番地の空地(この事情明細図は1926年の落合町と長崎町を合成したもの)。家の北面と西面がほぼ等分に見えている事も、落合医院の方が、やや分が良いといえるでしょう。

    
その上、こちらの地点が、正に、下落合の「商店が途切れる目白通り」であり、ここに到れば、落合町の北西隅(下落合字大上を除く)に立つ事になるわけです。佐伯の、隅を押さえる傾向は、C.P.さまに教えて頂いたと思うのですが…。


C.P.さま、早速のコメントありがとうございます。御指摘に沿う様に描画ポイントを以下の様に直してみました。如何でしょうか。
画角に入る店の有無は、一旦棚上げにしても構いませんが、道のカーブについては、駄目です。1936年の空中写真を見れば、カーブがある事は、明らかではありませんか?現状より、1926年に近いのです。描画ポイントから引いたラインから離れて、右カーブしていきます。
さて、それもさておき、もっと詳しく画面を見ましょう。絵の道の右手にある南の敷地に入る段のようなもの(赤い線)は、C.P.さまのポイント(赤紫の線の入った事情明細図)から見える細い道(うす赤く表示)にいい感じで対応する様に見えます。一方、緑の矢印を付けた道幅の変化は、私のポイントの方と関係がある様に見えます。また、そのあたりから南へ入るラインの向うに(緑の点線)家があり、ラインと家がぶつかりそうな(但し先程の赤いラインを前提とする)C.P.さまのポイントより、私の方が良さそうに思います。それから、道の左手は、殆ど分からないとはいえ、あまり店がある様には感じられません。事情明細図を見ると、より西で商店の途切れた方との関連が強そうです。こんな事を考えてみました。

        


『これでもか「八島さん」ちの前通り。』考

別館、G.M.作業室です。
Chinchiko Papaさまの「八島さんち」シリーズの御考察によって、この通りの様子が大分判明してまいりました。佐伯の、道の片側の家は殆ど描かない、といった特徴による解りにくさにも拘らず。

さて、『これでもか「八島さん」ちの前通り。』の描画ポイントの特定を、別館も勿論支持するのですが、画角に佐伯のアトリエが含まれるか否か、という微妙だけれど、佐伯の心理を考える上で面白い問題については、少し詳しく画角を示した図をupして、G.M.の考えを述べたいと思います。


『当時も妙正寺川は溢れていたのか。』考、その2

別館、G.M.作業室です。
本館の写真のupにあわせ、「『曇日』の地点よりは少し中井駅寄り」と「中井御霊神社のあたり」として、地形図の「え」と「あ」の地点を選び、シルエットを起こしてみました。…恐いほどの急坂です。
  *仮に、標高25m(紺の線)と標高37.5m(オレンジの線)の間を、バッケと考えています。

しかし、『曇日』のあたりの「い」「う」では、私の考える描画地点方面から見ると、こんな感じです。
そして、画角内に(2本の黄色い線の間)、「い」と「う」を大体の比率をあわせて入れると、下の図のようになるかと思います。家々の大体の位置も入れてみました。
バッケは青い家と赤い家の間から立ち上がり、緑の家の上をGの所を緩く通っていると考えられそうです。

バッケは、当然、画面入るのです。しかし、低湿地の霧のためか、その日はGで僅かにのぞくだけだった、というのが『曇日』の仕掛けだと私は考えています。

追記。現在の「い」のあたりの坂の印象は、この図よりキツイ感じがします。しかし、それが等高線の間隔の誤りに、つながるのか。その後の整地は、どうなっているのか…。


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