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佐伯アトリエに1926年9月1日にあった「落合村風景」。

別館GM作業室です。
落合道人さまの記事「佐伯祐三の『下落合風景』は8月以前から」は、第一次渡仏から帰ってきた佐伯が、従来言われていたように二科展が始まってから日本の風景も描いたらよかろうといった周囲の声の中で一連の「下落合風景」を描きはじめた訳ではなく、1926年9月1日に、二科賞受賞についての取材に来た新聞記者の真ん前に既に「下落合風景」が置かれていた事を御指摘された、重要なものでした。

受賞スナップ.gif

この作品は、ピントの合っていない受賞記念記事の写真からも、1927年6月に開かれた1930年協会第二回展覧会に出品され絵葉書にもされた「落合村風景(絵葉書に印刷されたタイトル)」とよく似ている事が感じとれます。佐伯は、同じ場所で何枚もの風景画を描く事知られていますが、この「落合村風景」は、曾宮一念アトリエ前から諏訪谷の方を見る「セメントの坪」と落合道人さまのされた作品群の一つである事は間違いないでしょう。そして、さらに詳しく検討したところ、1930年協会第二回展覧会に出品された「落合村風景」そのものであると考えられる事が判明しました。
受賞記念写真中の作品と、絵葉書の「落合村風景」とは、構図が似ているだけでなく、左上の空の塗り残しと見られる部分が酷似しています。構図が似て見える作品が複数ある可能性はあっても、筆の勢いに任せて生じた塗り残しが同じように見える可能性は,極めて低いと考えられます。しかし、受賞記念写真中の作品と絵葉書とでは、どこか違う印象も受ける、それはなぜかも問題です。

セメントの坪室内.gif
受賞記念写真中の作品は、手前の右手と下方に何かがあり、なおかつ、やや斜めに置かれています。その作品の外枠を水色のラインで、手前にあるものを桃色のラインで描き起こすと,このようになります。

セメントの坪黄色にした.gif
そして絵葉書の「落合村風景」を、この室内にパースを合わせて置くと、黄色のラインのようになります。すると、全くと言ってい程、室内に置かれた作品と「落合村風景」との描かれているものが重ってきます。画像の透明度を変化させて、その実感を伝えることが出来ないのが残念ですが、似た構図の他の作品ではありえないレベルと考えられます。

受賞記念写真中の作品と絵葉書との間に感じられる違和感は、一つには絵葉書における作品のトリミングが大きいからなのでしょう。空の広がりが損なわれているし、右手の建物が奇妙に僅かに覗いているのも、オリジナルな状態ではなさそうです。トリミングは、絵葉書等でしか知る事の出来ない作品を見る際に、大いに留意すべき問題なのでした。
もう一つの違和感は、アトリエにある作品と絵葉書の間にある階調のズレですが、白い塀の一部に、どうも撮影や印刷による誤差を超えたものがあるように、私にも感じられます。佐伯の画面は、薄塗り・厚塗り、不透明色・透明色を自在に使い分けており、塀のような質感のところに、時間をおいて重ね塗りをしたとしても不思議ではありません。そして、完成作ではない制作中の作品が、手近な所に置かれていたため無頓着に取材写真の真ん中に写った、という経緯も私にはありそうに思えます。^^;

「高田馬場」の佐伯祐三

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明治末.jpg

本日は、佐伯祐三が谷中真島町(http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-10)の次に住んだところとして知られる、「高田馬場」の下宿について考察したいと思います。後に妻になる米子によると、それはこんな所でした。

  その後、高田馬場に部屋を見つけて移転しました。その頃の高田馬場は、今から思えば
  想像もつかないほど閑静なところで、一里も続いているような雑木林が、ゆるやかな起
  伏のある丘とともにひろがり、春夏秋冬それぞれ林の眺望は変化に富んでいました。そ
  うした美しい林の入り口の家をたずねて集まったお友達は、江藤純平さん、山田新一さ
  ん、亡くなった佐々木慶太郎さん、深沢省三さん、その他の方々でした。
                           (「佐伯祐三のこと」1957)

  戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたりは、その
  頃、戸山ヶ原と言いました。ゆるやかな起伏ある勾配に、雑木林が限りなく続き、昔の
  物語が秘められている静かな風情は、とても都内とは思われませんでした。この林のほ
  とりの家の一室を借りて勉強し、ここから美校に通っていた頃を知っております。
                           (「佐伯祐三のこと」1963)

1921.jpg

米子の述べる高田馬場の家は、上の左の地図の下方の細長い水色の形の中にあったと考えられます。高田馬場の南方には、山手線の内側にも外側にも、ゆるやかな起伏の「戸山ヶ原」の林のほとりと呼べる場所がありましたが、「戸塚の一角」で、戦後「白いアパート群が重なりあって建ち並んでいるあたり」の人家で、風情が良さそうなところがというと、水色のあたりが該当するからです。

「戸山ヶ原」の概念は、もとは、はるか東にあった尾張徳川家の戸山御屋敷(現・戸山1~3丁目)に由来する筈です。しかし戸山が陸軍用地となって後、陸軍の施設の拡大に追われて、明治期末頃には西大久保(現・大久保3丁目。旧・諏訪町の南)、更に大正期以降になると山手線を越えた大久保百人町(現・百人町3~4丁目。旧・戸塚町と大久保町)の雑木林の一帯をも指すように変遷しています。少し前のエリアを戸山ヶ原と認識しつづける人もあれば、米子のように、現・百人町4丁目を戸塚の戸山ヶ原と呼ぶ人もありで、現在は再び戸山の名前をつける範囲が戸山御屋敷に回帰しているだけに、昔の記述がどこを指しているかの判別が、ちょっとやっかいになっています。

さて、佐伯と出会って直に恋に落ちたという米子は、谷中真島町の下宿も、戸山ヶ原の「四季」も知っていました。19世紀生まれで東京女学館卒の良家の子女系だからか、米子は恋愛時代のことを多くは語りませんが、つまり、おそらく佐伯は第2学年の頃(1919年夏から1920年の初夏頃。当時の美校は9月から新学年が始まる)に1年間ほど、戸山ヶ原のほとりに住んでいたということになりそうです。下限としては、1920年の夏休みの帰阪前に、既に、佐伯は本郷弥生町の大谷家に下宿先を移していることが山田新一の証言によって知られています。

上にある地図の左のものは1921年測図の一万分一地形図です。右は1916年の測図のものです。この辺りの山手線の西側一帯で、1910年代後半になって急激に郊外住宅の開発が進んでいることが分かります。画家たちも、それと軌を一にして居住していく様子が伺えます。佐伯の美校の同級生としては1920年までに、二瓶等が下落合にアトリエを建てており、山田新一は地図を僅かに北に外れた池袋に暮し、深沢省三も1920年秋以降に目白と池袋の間位に越してきています。佐伯たちより4級上で1919年3月に卒業となる里見勝蔵らの学年の美校生も何人か、1910年代の後半に池袋に住むようになっています。山田の場合は、その里見に誘われ池袋に転居したのでした。

佐伯が、なぜ高田馬場/戸山ヶ原に転居したのかについては、先の米子の文章がその事情を物語っています。谷中時代に佐伯と米子は、どちらも局留めにした手紙を交わしあう熱愛状態にあり、学校生活にも慣れ、ブームになりつつあったといえる郊外転居は、実はなにより雑木林を米子と二人で心おきなく散策するためでもあったと思われるのです。米子は、下宿を訪ねてきた級友たちのことも、よく知っているのでした。
佐伯には戸山ヶ原の風景を描いたという作品もありますが、人物も静物も盛んに描いていたようです。日々キャンバスを抱えて外に飛び出す佐伯が誕生するには至っていない高田馬場時代でしたが、北へ北へと歩けば下落合に至る場所に暮した高田馬場時代なのでした。


補:「戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」考

戸山住宅.jpg
米子の「戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」と述べた場所について、もう少し詳しく考えてみました。白いアパートが建った場所を1963年の空中写真であてはめてみると、上の図の様になります。山手線の東側のアパートは射撃場の中に建っており、諏訪通りを北に越えた辺りの家の事を、林のほとりと言えなくはないかもしれませんが、やや苦しい気がします。
山手線の西については、米子さんは、「戸塚」について正しく表記していました。よく確認したら、現・ 百人町4丁目は、もともと大久保村ではなく戸塚村に属しています。現・4丁目は「百人町」とつくのに、もともとは大久保ではないのでした。ブルーのエリアは、1975年に現在の町名が施行される以前は、長く戸塚3丁目ないし戸塚4丁目であり、戸塚の戸山ヶ原という認識をもつ地域の人々がいて、当然の場所だったのです。大きな曲線状に整備された諏訪通りができ、林のほとりの家は消滅し、町名も大きな道路による分断に適応して変化したのでした。私としては、「戸塚の一角」が、ブルーのエリアのどこかであるとの心証が確実になってきました。また本文の表現の一部を、米子さんに謝しつつ訂正致しました。(2011.11.14)


タグ:佐伯祐三
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短報:佐伯祐三/佐々木慶太郎/大久保作次郎

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佐伯祐三の描いた下落合の風景の中でも、最後の作品と比定しうる「八島さん」シリーズの再発見には(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-11-06)、実見しなければ解らない絵画というものを、思い知らされます。家々や草叢、樹、道、電柱など、手早く的確なタッチを重ね厚塗りの混ざる、お馴染みの佐伯の表現の中で、一際目を惹くのは画面の半分以上を占める空の表現です。凛とした、天頂ほど昏さを含む藍色の空は、筆致を残さない薄塗りで、早朝の澄んだ大気をまざまざと感じさせます。画像等では、南の方からの光が当たっているように漠然と思い込みがちでしたが、佐伯には、いわゆる昼間ではない時間に描いた作例も幾つもあります。そしてC.P.さま特定の描画ポイントに北寄りから朝日が射すのはというと夏至にかなり近い頃となり、描画時期を1926年に想定する事は難しく、1927年6月の初頭までの第2次渡仏直前の作という事になる、と私も思います。

慶太郎1930.jpg
                 佐々木慶太郎
さて、いきなり話がズレてしまいましたが、本日は『短報:佐伯祐三/佐々木慶太郎/大久保作次郎』ということで、佐伯と大久保を繋ぐ細い糸をレポートをしたいと思います。
佐々木慶太郎という名は、佐伯のファンには聞き覚えがあると思います。共に大阪出身。東京美術学校に入るまえの川端画学校時代(1917年秋)からの友人で、美校の1年生の時(1918年秋)には上総の御宿に仲間と4人で、風景画を描きに旅行しています(山田新一による)。そして谷中真島町の下宿に二人で、おそらく1年程一緒に暮らしています。美校を卒業した時には、7人の同級生と共に作った同人会「薔薇門社」の仲間でもあり、とても親しい友達だったと思われます。それなのに、佐々木慶太郎による佐伯の思い出話などが残っていないのは、彼が佐伯に遅れること2年で、早世してしまったからでしょう。
その事情を教えてくれたのは、大久保作次郎でした。近頃、本館ですっかりお馴染みの、『早春(目白駅)』(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-10-10)を描いた大久保作次郎(1890-1973)が、1930年第4号の『美術新論』に「佐々木慶太郎君の死を悼む」という一文を寄せています。大久保、佐々木、佐伯は、共に大阪出身ですが、なかでも大久保と佐々木は、三四丁しか家が離れていなかったのでした。中学を卒業後、美校受験を志した佐々木は大久保を訪ね、交際が始まっています。大久保は、病を得ての33歳の死を、真率に哀惜する文章を書いています。雑誌に追悼の辞を書くという事は、同郷の先輩として庇護者的な立場に立っていたのでしょう。
同誌には林崎祝も「佐々木の慶チャンが死んだ」という文章を書いています。それによると、佐々木は稚気満々の世話好き、竹を割ったような真正直で明るい努力家にして、「人並はずれた變り者」「奔放飄逸の性行」「數々の奇想奇行の足跡」のある人。当時、絵描きは奇人をもってよしとする気風があるとはいえ、佐伯と佐々木の共同生活って一体 …、と思わず引きますね。佐々木の画壇へのデビューは佐伯よりも早く、美校在学中に帝展、平和博に入選し、卒業後は帝展の他、中央美術、槐樹社の展覧会にも出品。しかし、美校卒業と同時に就職をする必要があり、やがて家族に見守られて亡くなっています。
佐々木と佐伯の共同生活の頃(1918秋-1919 夏? )に戻ると、二人の谷中真島町での暮しは、なにかとエピソードの多いものだったようです。自炊した食器を洗わないばかりでなく茶碗など十以上買ってきて片っ端から汚していた、などというのは単なる無精者のハナシだと思いますが、佐々木は佐伯をモデルにしたスケッチを沢山描き、「その表情、姿態たるや、思ひ切り奇抜で一つとして並の形はなかつたやうである」というものもあり(江藤純平・田代謙助「學校時代の佐伯君」1929)、これになると見たことがないのが残念でなりません。
ところで大久保作次郎は、その頃、二人の暮す真島町のすぐ近所の谷中初音町に住んでいました。でも大久保は、1919年に下落合にアトリエを建てて引っ越してしまうわけです。この引っ越しの際には、佐々木は手伝いをして然るべき間柄であったでしょう。佐伯も、三四郎が広田先生の引っ越しの手伝いをする以上に手伝ってもいいくらいではないか、となると勝手な想像ですが、ただ、その2年後に下落合にアトリエを建てることになった佐伯にとっても、大久保作次郎は、佐々木慶太郎を通じて、なんらかの繋がりはある人だったと考えられそうです。

タグ:佐伯祐三

新橋のガードを描く佐伯祐三。

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佐伯/銀座風景/255*160.jpg
「銀座風景」

現在(2010年3月27日から5月9日まで)、新宿歴史博物館の『佐伯祐三展 ―下落合の風景―』に展示されている佐伯祐三の「銀座風景」の描画ポイントが、本館の『池田象牙店から銀座8丁目を眺める。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2010-04-25)によって検討されました。俯瞰の構図のスケッチは、なんらかの高所から描いたものであり、当時、佐伯祐三の妻・米子の実家、池田象牙店のあった芝区二葉町4番地の階上から土橋方面を望むと、まさに、このような光景が広がっていたことでしょう。この展覧会には、また佐伯が1927年に、ここに住む池田家の親族に出した手紙も展示されており、細やかな心遣いのある交流があったことを示しています。

佐伯/新橋風景/255*209.jpg 佐伯/新橋ガード/246*209.jpg
「新橋風景」               「新橋ガード」

さて、佐伯には更に2点、新橋、つまり池田象牙店の近所で描かれたとされる作品が、現存しています。その作品には鉄道のガードが描かれていますが、今から100年程前に、当時の山手線と東海道線のための高架鉄道が、浜松町/東京駅間に造られていたのでした。特徴的な赤煉瓦のアーチと石組みのコーナーの意匠を持つ高架橋は、なにかに覆われていない箇所で、私たちも普段目にしています。そして高架橋には、ガードが幾つも幾つもあります。

新橋ガード.jpg新橋を描いた佐伯の作品は、「新橋風景」「新橋ガード」等と呼ばれています。新橋周辺のガードといえば、池田象牙店の西北西直ぐの場所に「幸橋ガード(架道橋)」があります。巾が20m以上ある広いガードです。池田象牙店の南南西には、「二葉橋ガード」がありますが、これは更に広く30m近い巾のあるガードです。新橋駅の南には、もう一つ30m近い巾のある「源助橋ガード」があります。

「新橋風景」に描かれているのは、広いガードの一部 ですが、遠方にガードをくぐる向きの路面電車が走り、且つ、道と線路が大体直角に交叉しているようであるため、これは「二葉橋ガード」だと思われます。池田象牙店から徒歩1分未満の「二葉橋ガード」の入り口附近、描いたのが朝であれば東側、午後であれば西側に佐伯はイーゼルを据えていることになりそうです。

一方、「新橋ガード」と呼ばれている作品に描かれたガードは、狭いものです。新橋駅の南側に並ぶ「烏森橋ガード」「日陰橋ガード」「芝口橋ガード」は、いずれも狭めですが、佐伯の描くガードの道と線路の交叉角度は、左が鋭角で、右が鈍角になっており、これに該当するのは「日陰橋ガード」となります。その上、このガードは西側では「芝口橋ガード」と交叉するため左側の鋭角の角が無く、佐伯は明らかに「日陰橋ガード」を東側から描いていると思われます。

しかし現場を見ると、なんと、それが判りにくくなっていることでしょう。佐伯が立った時、高架線は写真で緑にした線路が4本の煉瓦造りのものだけでしたが、

日陰橋/東から.JPG
東側から見た「日陰橋ガード」

その後、現・東海道線と新幹線用の計4本の高架鉄道が東側に増設され、それが、このガードの位置ではピッタリくっついて空を覆っています。線路を支える鉄骨にも覆いがなされ、煉瓦は白くペイントされています。東側に増設された高架線の下は、後から設置された構造物で埋まり、元の煉瓦の壁が見通せません。

日陰橋ガード/ペイント中.jpg
Googleのストリートビューが捉えていたペイント中の日陰橋ガード

日陰橋ガード/ペイント中/分析.jpg
佐伯の「新橋ガード」と対照して考えてみる

とはいえ注意してみると、作品にあるガードの特徴的な要素が、確実に存在しています。また、作品の雰囲気自体は、現在ですと、このガードを西側から見つつ、左の角が欠けている点を補って想像すると、掴みやすいかもしれません。

日陰橋/西から .jpg 日陰橋/西から/補助線.jpg
西側から見た「日陰橋ガード」       「新橋ガード」を想像してみる

佐伯が、これらの新橋のガードを描いていた時、すぐ脇にあったのが新橋駅です。1909年に開業した煉瓦の朱色も鮮やかな駅舎。関東大震災の時の炎に巻かれ、屋根は落ちたけれど復興されています。佐伯は、真新しい頃の駅舎も知っていたし、震災直後に米子の実家に向かい焼跡に建つ姿も目撃した上で、1926年の帰国時に新橋で作品を描いたのです。
しかし、2枚の現存作品からでは心もとない想像ながら、新橋のガードを描く佐伯は、量感のあるピトレスクとも言えそうな駅舎は相手にせず、ガードが構築する闇と光に惹かれているように感じられます。「銀座風景」にしても、画角を少し左に振れば、高架鉄道の煉瓦のアーチの連なりやライトの設計した帝国ホテルが見えた筈でした。
佐伯は、それらも描いたのに作品が伝存していないのか、それとも、そういったモチーフは選ばなかったのか。私の心証としては、日本でも、都心部に殊にいくらでもあった煉瓦造りやコンクリートで出来た巨大な建造物について、佐伯はテーマとして深める意志を持たなかったように思えます。

烏森駅カラー/255*156.jpg 震災新橋駅247*156.jpg
開業当初の烏森駅だった頃の新橋駅     関東大震災直後の新橋駅

諏訪谷1925/曾宮一念「冬日」「荒園」に見る諏訪谷

別館GM作業室です。今回は、佐伯の1926年の諏訪谷(http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-10-23)の1年前にあたる、曾宮一念の1925年の諏訪谷を見ていきたいと思います。

冬日h250.jpg

この作品「冬日」について、曾宮は「大正十四年一月、下落合の庭で大根洗場を見下したもの、まだ武蔵野の面影があった」(『曽宮一念作品集』1966)と述べています。曾宮の1920年代の半ばは、造形的なデフォルメのある画風への転換期にあたるとはいえ、「冬日」には、当時の諏訪谷が結構ありのままに、描かれているようです。まず、谷の東西の尾根筋の高度の違いがあり、西の方の丘(画面の右側、1930年代に入って聖母坂が拓かれる丘)が低くなっていますます。それは、一万分の一地形図(1909年)を重ねてみると等高線一つ、2.5m前後の違いにあたる高度差でしょう。丘の一部に森が残っており、その手前に見えるのは、古くからの諏訪谷の斜面と思われます。

諏訪谷1925/分析.jpg

大根洗場の先の谷の曲がる所は、「冬日」では洗場上辺とフラットになっているように見えます。しかし、昔の地形図では洗場より低くなっています。これは、既に谷の埋立てが始まっていた事を示しているのかもしれません。洗場の向うの東の丘の裾の(画面の左側)土が剥き出しになっているのも、埋立てと関連している可能性がありそうです。
上の分析図で、赤い線で示したあたりを、「冬日」の画角と考えます。画面右下の家を、赤い四角の場所と想定しました。曾宮の庭より、3m近く低いGLにあたるでしょうか。この敷地を造るためには、斜面を削る事と盛り土をする事、両方が必要だったのではと思います。
先の「セメントの坪があったころ」の考察の中では、事情明細図と対応させた土手を漠然と想定しましたが、上の分析図では、1925年の時点での新しい造成によるであろう斜面をイエローオーカーで、昔からの斜面と思われるところをグリーンで描いてみました。

曾宮の「荒園」は、1925年の作といっても、桐の花が咲いているので、「冬日」より4ヶ月位後の制作になると思われます。その「荒園」の、Chinchiko Papa様に御教示いただいた「絶壁状の雍壁が存在しない地面がむき出しの斜面」(下の右の図に表示)を、分析図で考えると、まさに独特なカーブをもつ斜面が見出されました(グリーンの三角のところ)。このイエローオーカーの斜面では、等高線に直角な大きな切拓きが行われたと思われます。

荒園h250.jpg荒園h250/土手.jpg

「荒園」の画角は、緑の線のあたりに想定しました。曾宮の庭の中程にある桐の樹が手前に掛かり、佐伯の「セメントの坪」にある特徴的な家々(淡いマゼンダの中の家々)は見えず、画面右手の家の方が左の家より高いGLにある等の特徴を考慮してあります。
「冬日」と「荒園」に見える、諏訪谷の南東側の北向き斜面には、整合性がないようです。「冬日」の画面左の自然な斜面を延長しても、「荒園」で切拓かれている土手は想定しにくいのです(イエローオーカーのラインの断絶を参照)。おそらく、「冬日」と「荒園」の間にある1925年の春先に、ここにかなり切り立った土手が形成され、諏訪谷の中の宅地が造られたと思われます。谷の中の低かった場所には盛り土がなされ、東から西へ緩やかに下るひな壇状の整地も順次進んだことでしょう。曾宮一念の、この1925年の2作品は、諏訪谷の開発を巡るそのような証言にもなっていると考えられます。

セメントの坪があった頃

別館GM作業室です。本館の最近の曾宮一念の作品や写真のご紹介によって、諏訪谷の姿や変化について、考察が深められるようになってきました。そこで、制作83年目の佐伯祐三の「セメントの坪」(1926年10月23日制作)と当時の諏訪谷について、別館でも改めて見直してみようと思います。まず、現在知られている資料の幾つかを時系列順に見ていくと、次のようになります。

一万分の一1923002.jpg1921年? 僅かしか諏訪谷には家が無い。622番地の曾宮アトリエ南の道の道筋は現在と異なり、西へ向かって登り、731番地のお宅の北に滑らかに抜けている。
E5A495E697A5E381AEE8B7AF1923.jpg1923年 曾宮一念「夕日の路」 浅川塀を正面に見る曾宮アトリエ南の折れ曲がる道は、荒々しいものの 現在とほぼ同じ道筋になったと思われる。道の右手の諏訪谷は急に落ち込んではいないらしい。
E586ACE697A51925-da3ca.jpg1925年1月 曾宮一念「冬日」 諏訪谷の中の洗い場は、まだ埋立てられていない。しかし、庭から見下ろして描いたという曾宮の視線より低い位置に(右手前)、既に家があることが注目される。
Google諏訪谷/up用.jpg現在の諏訪谷 道筋は1938年の火保図・1947年の空中写真とほとんど変わらない。


さて、初めに諏訪谷近辺にある問題として、先日の『諏訪谷に面した曾宮一念邸を拝見。』『佐伯祐三の「浅川ヘイ」を考える。(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-08) 』で触れられた、1926年には第六天の東側の道筋が、現在とは異なり少し東に寄っていた、という御指摘に賛同したいと思います。一万分の一も、それを示唆するようですが、1947年の空中写真でも確認出来る、高嶺邸と内藤邸に挟まれた家(仮にM邸とする)の向きが、1947年の道に沿っていない事も、その証左になるように感じます。

1947諏訪谷/M邸.jpg

この今とほぼ変わらない、第六天の境内(緑色の部分)のどこに鳥居を立てても、「セメントの坪」にあるように、曾宮邸敷地にある電柱の左手に鳥居が来る描画ポイントはなく、といって現存高嶺邸をはじめとする多角的な状況証拠が重なる、この絵の光景がこの場所以外であることは、ありえないでしょう。

セメントの坪/R邸.jpg

現在、諏訪谷の周囲は、ほぼ切り立った擁壁で囲まれ、曾宮邸南の道に面して入り口を持つ家々も、谷の下から建ち上がる構造になっています。しかし、「セメントの坪」の右端に覗く家(仮にR邸とする)は、違っています。緩斜面上であるとしても、道とフラットな地面の上にあると思われます。ここは、曾宮一念の「夕日の路」の右手の叢と繋がってくる場所でもあります。
先程の1947年の空中写真や聖母病院も写るスナップ写真(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-03)を見ると、戦後すぐの諏訪谷の周囲は殆どが急な土手であり(上の空中写真のオリーブ色の部分)、第六天の西側だけが大谷石かコンクリの絶壁であったようです。しかし、1926年の時点では、どうだったのか、R邸の事を考えると違ったのではないか、というのが次の問題です。

事情明細図/土手.jpg

事情明細図は、1926年半ばの現状かと考えられるのに、佐伯の絵にある、家々が密集した雰囲気とは、随分異なります。しかし、事情明細図は、そこに誰かが暮らしている事が判明している所でも空欄にしている場合があり、書き込みが無い事が空地である事を意味する訳ではありません。しっかり表札が出ている家は採取してある、という事なのでしょうか。そう考えて諏訪谷の様子を見ると、洗い場は既に移動され、第六天脇から谷に下りクランクする道等も出来、宅地化の基本整備は済んでおり、既に建った家と共に、まさに建設中の家々があった、という状態であったと考える事が可能です。そして、そのような事情明細図の「諏訪谷の中」に土手と土地の段差を示すらしい表現がある事(草色の部分)が、注目されます。この土手や段差を空中写真に移すと、どうなるか思案してみました。

1926諏訪谷/土手.jpg

事情明細図でアールのある土手として描かれ、曾宮アトリエ南の道が大きく曲がる所、R邸のあたりでは、土手が「曾宮邸南の道沿い」ではなく「R邸の南」にあったと考える事が,可能ではないかと思われるのです(緑の部分)。谷の中での小さな段差については、現在もそうであるように、実際にはもっとあったものが、事情明細図では省略されていると思われます。
また、諏訪谷の開発地の周囲は当初みな土手、即ち、大六天の西と谷底の造成地の間も土手であったのではないかと、私は考えています。これも事情明細図には描かれていませんが、描き込むスペースが狭すぎるからか、整地の途上だったからか、単に略したのか…。そう考える大きな理由として「巨木の移動」問題(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-05-08)がありますが、今は「セメント坪」には巨木は描かれていない、という事だけ押さえておこうと思います。
さて、このように土手による初期の造成がなされていたならば、谷へ下りる道の入口で、両側の斜面に落っこちないために、「坪」が必要となります。谷へ下りる道は、大六天西土手が絶壁でない分、少し西にある筈でもあり、道の入口は「坪」の折れ曲がる所にあった、と想定してみました。諏訪谷へ下りる道の入口が現在のままの位置であったとしたら、佐伯の絵の坪の屈曲部の左手に、それが描かれてしかるべきなのに、その気配がないのは、おかしなことでした。しかし、このような土手で囲まれた諏訪谷造成地と「坪」を想定するとき、諸々の謎が解けるように思えるのです。
佐伯が描いた「セメント坪」の当初の姿は、恐らく長くは存在しなかったことでしょう。大六天東の道筋や交差点付近の変更、大六天西の土手の擁壁化(=大六天敷地のミニマル化・諏訪谷の底の宅地の拡大・巨木の移動)は、1930年代前半までには完了していたと考えられるからです。佐伯は、それを知ることはなかったけれど、1926年秋の変化していく諏訪谷を、正に捉えた作品を描いたと考えられます。



眺めが良かった佐伯邸

久しぶりの、別館GM作業室です。本館の『鶏舎の臭いがたまりませんの。(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-03-01)』に、そうでしたの米子はん!と呟きつつも、私見を述べたいと思います。

Saeki1917.jpg

これは、佐伯が下落合にアトリエを建てる少し前の、1910年代後半の状況を反映している一万分の一地形図です。中央やや上部にある碧緑の丸(佐伯アトリエの現存する場所)から周囲を眺めると、東南に「青柳が原」の家々(この中に、先住民としての鶏たちの小屋が、あったかもしれません…)があり、その北部にも人家が続くものの、南の斜面の「不動谷(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-23)」の森が広々と見渡せる事が、分かります。本日は、この眺めの良さに留意しつつ、佐伯アトリエの敷地と青柳さんのお宅の敷地の関係がどうなっているのか、各種の地図で具体的に、あたってみたいと思います。


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Fig.1「出前地図」1925年1月(以下、各々の図版の発行などの年を記す)

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Fig.2「事情明細図」1926年10月

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Fig.3「火保図」1938年3月

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Fig.4 ゼンリン 2007年

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Fig.5 Google Map 2009年

「出前地図」と「事情明細図」に比べて、「火保図」は測量に基づく正確な図のような印象を受けますが、ChinchikoPapa 様御指摘のように、よく調べると一寸した間違いも多く、家の形や位置などは見当が付く位の精度でもあり、注意を要します。そして、「出前地図」と「事情明細図」に、かなりのデフォルメを超越した意外なリアリティが、あったりもします。
さて、今回のテーマの、佐伯アトリエの敷地と青柳さんのお宅の敷地の関係、ですが、Fig.2(佐伯アトリエは「酒井億尋」の敷地の南半分位を占める)・4・5 が、同じ状況(赤いライン)を表現していると思われます。Fig.1 も、「矢島」さんの家が随分南下し、青柳邸が佐伯の東隣になっている等ヘンですが、佐伯アトリエの敷地が、南西の隣地に食い込んでいる感じは、FIg.2・4・5 同様に掴んでいると思います。問題は、Fig.3 の「火保図」で、これだけ、佐伯アトリエから青柳さんの敷地(Fig.3 では、杉山さんと、その南の家。Fig.4・Fig.5でも2軒の家)にかけてが(水色のライン)、納邸とフラットに隣接してしまっています。これを総合的に検討し、私は「火保図」の作図が誤っており、佐伯アトリエが出来た当初から、現在のような赤いライン(Fig.5)があったと考えます。
そして、場所も変わっていない佐伯アトリエを、Fig.5 の現在の空中写真によって見てみると、アトリエの切妻が、ぴったり青柳邸にかからずに不動谷方面の樹々を望む向きを向いている事が,分かります。アトリエから更に南に伸びた母屋も、同様に、きれいに不動谷に向かうことになります。

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少し前に、Fig.5 のアプリコットという字がかかっている場所の建物が建替えのため、除けられていた時期がありました。その折に、黄色の丸印のあたりから見た佐伯アトリエです。久しぶりに、不動谷の方から佐伯アトリエが見通せた訳です。佐伯は逆に、この住まいから不動谷を眺めるのが好きで、敷地に対して曲がったアトリエや母屋を、目一杯西に寄せて建てたと、私としては、あっさり思うのですね。
しかし、第1次渡仏中に第3文化村の分譲が始まり、1926年秋には、恐らく南西ドナリの納さん(?)の整地・建築も始まった筈で、周辺の状況が一変していきます。佐伯は、納さんが広い敷地の、どこにどんな建物を建てるか、気が気ではなかったのではないでしょうか。違法重層長屋など建つ訳ではないけれど、うちの南の方には何も建てんといてや、と作業員さんと懇意になりつつ見守っていたため、多くの八島さんの前通りシリーズが誕生したかも知れません。(笑)


ホワイトの謎

別館GM作業室です。
本館の『佐伯祐三の「下落合風景」も悩ましい。』(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-14)を受けて、この『風景』という佐伯の作品の、1927年と現在の画面を、詳しく比較してみたいと思います。

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雪景色でもないのに屋根が、妙に白く輝いています。
この作品の現在のカラー写真を、モノクロに変換すると、こうなります。
(次の『アトリエ』の写真にあわせて、トリミングしてあります。)
kara-dattahuukei001.jpg

一方、1927年8月号の『アトリエ』に掲載された、1930年協会第二回展に佐伯が出した「風景」の図版は、このようなものです。
1930nen2kaiten001.jpg
全体としてコントラストが弱い写真、ないしグレースケールの諧調にゆがみがある写真に見えます。それでも、私には、「物置のトタン屋根(?)」には、現在とほぼ同様の調子があるように見えます。(むしろ絵の具層が少なく見えるけれど、ホントは、あるのでしょう。誰も加筆していないと思います。笑)
母屋の屋根は、一階の庇に、やや明るさのムラがある感じはするけれど、明瞭なホワイトの露出は、確認出来ません。「物置のトタン屋根」から類推すると、もう少しコントラストがあるかもしれませんが、現在の写真と同一ではない可能性があるようです。
さらに、別の箇所について検討すると、
1930nen2kaiten/問題.jpg
左上の丸の中の、樹の小さな強いタッチが、現在の絵には見えませんね。冒頭のカラー写真では、茶色っぽい、ぼんやりした梢になっています。また右下の土の所の色合いも、明るくなっているように思えます。

…、とすると、昨日のコメントとは打って変わり、「洗浄」はあった、派に転向したいと思います。m( _ _ )m   この作品の履歴をみると、1930年協会展に1927年に出品された後、1968年の講談社の『全画集』に採録されるまで、世に出ていません。空白の40年の間に、なにかあったようです。

さて、屋根から何が消えてしまったかですが、私は、ごく彩度の低い、わずかにミドリがかったグレーの薄塗りを想定してみました。まるで汚れのように見える色です。その層を取り除き、茶色やブルーの色味が出てきて作業を止める。しっかりしたホワイトの下塗りの上に、バーントシェンナの暖かい色味を掃き、さらにグレーで軽く押さえたならば、重い日本瓦ではなく、薄くて固いスレート屋根が見えてくるかもしれません。この想像が、「悩ましさ」からの逃避行動でなければ、よいのですが。



池田邸の「高楼」問題

赤い屋根に鴟尾か鯱、さらに高楼がのる、かなり独特な形の家のある佐伯の下落合風景の描画ポイントとして、C.P.様の御考察により地形的に適格性のあることが認められる池田邸ですが、1950年代くらいまで、それがあったならば、その記憶が真上のお宅に暮らす御家族にあってもよいのかもしれません。しかし、現存する資料から考えて、1930年代半ば以前に「高楼」のあった家は無くなり、池田邸は記憶の彼方に消えた、という可能性もあると思います。
では、『旧・池田邸をカラー写真で観察する。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2008-02-17)のコメント欄で、言葉で説明できなかった、1936−1970頃の、空中写真やスナップ写真で見られる「旧・池田邸」の同一性について述べたいと思います。
まず、比較的明瞭な1964年の空中写真を基に、屋根の形を描き起こしてみました。

この形を拾っています。

それを、1947年にあてはめると、

1944年では、

1936年だと、

となります。
西日の強く、ぼんやりした写りの1944・1936年の写真は分かりにくいものの、屋根のあり方自体は変わっていないと、私には見えます。「突起」と見えるのは、このあたりの事ではないでしょうか。


西館の影の落ち方と、屋根の下にある庇のようなものに、日があたったり、あたらなかったりする事で、あるいは角度が変わる事で、写真の印象が大分変わるようです。でも、この東館は、少なくとも1936年以降、そんなに変わる事はなく、それ以前に、西館が「高楼」付きの平屋であったか、むしろ全体が、異なった建物であったか、という風に私は推測します。
>住宅を建て替えるとき、住民は敷地のかたちに合わせて同じような位置に、同じような形状の建物を建てるのが一般的に見られる傾向であり、
という御指摘はもっともで、池田邸の敷地にたいしては似た風情で、異なったデザインの家があったのでは、と考えるのです。そして、佐伯の描く、鴟尾か鯱がのる赤い屋根の家と、戦後の写真で見ることの出来る、緩やかな寄棟の印象のつよい家では、ずいぶん異なった好みですから、1930年代に、ここに住む事を選んだ方の場合、惜しげもなく建替えてしまったのかなあ、と思ったりします。また、佐伯が描いた時、大きな樹が南側に茂っているけれど「高楼」をチョイと造って眺めを楽しんで暮らしていた方があったのかな、とも思ったり。佐伯は、「高楼」を見つけて、なにを考えたのでしょう。


補:1947年の空中写真にみえる「突起」問題について

臙脂色の矢印の指す影のうち、左の方のものを、C.P.さまは「突起」とされているのかと思います。

しかし、それは、右の矢印の指す影と、よく似た性質のものでもあります。


屋根の描き起こしを、もう一度試みました。
本文中のものに、少し変更を加えました。それは、一部のラインを山吹色にした事です。これは庇か、地面に打ったコンクリートの部分ではないかと思います。どちらであっても、臙脂で示した屋根とは段差があります。また、1947年には、屋敷の周りの樹が、かなり茂って、家の輪郭を辿りにくくしています。それは、グリーンで示しました。
「突起」のように見える影は、屋根の斜面の途中にある出っ張りではなく、屋根の影が、庇ないし地面に落ちているのではないか、と私は見ているのです。西から光がきている1947年の写真では、その影が目立ちますが、南からの光の1964年の写真では、異なった見え方となるのでしょう。

補 その2:

目を入替えて、「煙突」を認めてみました。

しかし、太陽光に対し、似たような傾きを持つ他の面(臙脂色の影を付けた所)との、有意の差は、あるや否や?



補 その3:佐伯の作品と、空中写真にある家との不一致感について


東の鴟尾(?)と北の鴟尾の間隔が、絵のようにある為には、Aのブルーのゾーンあたりから見る必要があるように思います。北の破風が絵のように稍斜めから見えるのは、Bのゾーンあたりかと思います。「高楼」と北の破風のある赤屋根が、絵のような関係に見える為には、Cのゾーンあたりが、想定されます。この3つのゾーンが重なることは、難しそうです。
また、絵では、高楼の左手まで白い屋根の稜線が続いていますが、空中写真の家では、東の鴟尾から続く「d」の稜線が高楼の左に来ることになりそうです。
絵のような家になる為には、eの稜線がd位まで伸び、その稜線は東の鴟尾の載る稜線より有意に高く、eの南の屋根には南東に走る稜線は無く、「高楼」は、eの字の左上あたりで長辺を稜線に平行にして存在していれば、いいのではと思います。そして、絵でいえば白っぽい屋根になっている部分が、そのようなかたちであったとすると、写真に見られる後年の形になる為には、軽い改造ではなく改築がなされたと考えているのです。d-e間の稜線、南東に走る稜線、屋根全体の高さに関わる改変を、改築と感じている、ということでしょうか。赤い鴟尾の載る東と北のウイングについては、瓦の葺替えといった改装で、印象が一変するかもしれませんね。白い屋根の方の改築だけでも、大丈夫そうです。




本館新発掘の「下落合風景」2作を、まっすぐにして見る。

本館の「未知の『下落合風景』の発見」(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-05-20)に、別館もワクワクしてしまいました。ただ、もう少し見易くしたくなったので、画像を直してみました。(Fのキャンバスと推定)

奥の作品

左手の縁石と共に、右手の整地された土地(?)か畑(?)の広さが印象的です。

手前の作品

諏訪谷なのでしょうか。右端に大きな樹はあるけれど、家々の様子に、今までの作例と異なる感じも受けます。

小さな写真が、いろいろな事を考えさせます。近日中にupされるという、「もうひとつ」の発見が待たれます。

手前作品の補筆Ver.


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