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短報:佐伯祐三/佐々木慶太郎/大久保作次郎

別館GM作業室です。
佐伯祐三の描いた下落合の風景の中でも、最後の作品と比定しうる「八島さん」シリーズの再発見には(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-11-06)、実見しなければ解らない絵画というものを、思い知らされます。家々や草叢、樹、道、電柱など、手早く的確なタッチを重ね厚塗りの混ざる、お馴染みの佐伯の表現の中で、一際目を惹くのは画面の半分以上を占める空の表現です。凛とした、天頂ほど昏さを含む藍色の空は、筆致を残さない薄塗りで、早朝の澄んだ大気をまざまざと感じさせます。画像等では、南の方からの光が当たっているように漠然と思い込みがちでしたが、佐伯には、いわゆる昼間ではない時間に描いた作例も幾つもあります。そしてC.P.さま特定の描画ポイントに北寄りから朝日が射すのはというと夏至にかなり近い頃となり、描画時期を1926年に想定する事は難しく、1927年6月の初頭までの第2次渡仏直前の作という事になる、と私も思います。

慶太郎1930.jpg
                 佐々木慶太郎
さて、いきなり話がズレてしまいましたが、本日は『短報:佐伯祐三/佐々木慶太郎/大久保作次郎』ということで、佐伯と大久保を繋ぐ細い糸をレポートをしたいと思います。
佐々木慶太郎という名は、佐伯のファンには聞き覚えがあると思います。共に大阪出身。東京美術学校に入るまえの川端画学校時代(1917年秋)からの友人で、美校の1年生の時(1918年秋)には上総の御宿に仲間と4人で、風景画を描きに旅行しています(山田新一による)。そして谷中真島町の下宿に二人で、おそらく1年程一緒に暮らしています。美校を卒業した時には、7人の同級生と共に作った同人会「薔薇門社」の仲間でもあり、とても親しい友達だったと思われます。それなのに、佐々木慶太郎による佐伯の思い出話などが残っていないのは、彼が佐伯に遅れること2年で、早世してしまったからでしょう。
その事情を教えてくれたのは、大久保作次郎でした。近頃、本館ですっかりお馴染みの、『早春(目白駅)』(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-10-10)を描いた大久保作次郎(1890-1973)が、1930年第4号の『美術新論』に「佐々木慶太郎君の死を悼む」という一文を寄せています。大久保、佐々木、佐伯は、共に大阪出身ですが、なかでも大久保と佐々木は、三四丁しか家が離れていなかったのでした。中学を卒業後、美校受験を志した佐々木は大久保を訪ね、交際が始まっています。大久保は、病を得ての33歳の死を、真率に哀惜する文章を書いています。雑誌に追悼の辞を書くという事は、同郷の先輩として庇護者的な立場に立っていたのでしょう。
同誌には林崎祝も「佐々木の慶チャンが死んだ」という文章を書いています。それによると、佐々木は稚気満々の世話好き、竹を割ったような真正直で明るい努力家にして、「人並はずれた變り者」「奔放飄逸の性行」「數々の奇想奇行の足跡」のある人。当時、絵描きは奇人をもってよしとする気風があるとはいえ、佐伯と佐々木の共同生活って一体 …、と思わず引きますね。佐々木の画壇へのデビューは佐伯よりも早く、美校在学中に帝展、平和博に入選し、卒業後は帝展の他、中央美術、槐樹社の展覧会にも出品。しかし、美校卒業と同時に就職をする必要があり、やがて家族に見守られて亡くなっています。
佐々木と佐伯の共同生活の頃(1918秋-1919 夏? )に戻ると、二人の谷中真島町での暮しは、なにかとエピソードの多いものだったようです。自炊した食器を洗わないばかりでなく茶碗など十以上買ってきて片っ端から汚していた、などというのは単なる無精者のハナシだと思いますが、佐々木は佐伯をモデルにしたスケッチを沢山描き、「その表情、姿態たるや、思ひ切り奇抜で一つとして並の形はなかつたやうである」というものもあり(江藤純平・田代謙助「學校時代の佐伯君」1929)、これになると見たことがないのが残念でなりません。
ところで大久保作次郎は、その頃、二人の暮す真島町のすぐ近所の谷中初音町に住んでいました。でも大久保は、1919年に下落合にアトリエを建てて引っ越してしまうわけです。この引っ越しの際には、佐々木は手伝いをして然るべき間柄であったでしょう。佐伯も、三四郎が広田先生の引っ越しの手伝いをする以上に手伝ってもいいくらいではないか、となると勝手な想像ですが、ただ、その2年後に下落合にアトリエを建てることになった佐伯にとっても、大久保作次郎は、佐々木慶太郎を通じて、なんらかの繋がりはある人だったと考えられそうです。

タグ:佐伯祐三
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ChinchikoPapa

こんばんは。
佐伯祐三-佐々木慶太郎-大久保作次郎のつながりは、とても面白そうですね。コメントへリプライを差し上げましたが、佐々木の「佐伯祐三像」は1枚ものこっていないのでしょうか。ぜひ、拝見したいものです。
そういえば、佐伯が参加していた「薔薇門社」について、いままであまり探求してきませんでしたね。山田新一は、著作でチョロっとさりげなく、非常に重要なことを記録しているようですので、もう一度丹念に読みこむ必要性を改めて痛感します。
佐伯祐三-二瓶等(徳松)-中村彝のラインもそうですが、この記録があまり残っていない「ミッシングリング」の画家たちへ、もう少しスポットを当てたくなってきました。今度、「ミッシングリング」の画家たち特集でもしましょうか。^^;
特に、二瓶等は下落合に住んでいますので、周囲の風景を描いていて強く惹かれますね。また、佐々木慶太郎も1920年現在の佐伯像を仕上げているとのことですので、どこかに写真でも残っていないか興味津々です。
by ChinchikoPapa (2011-11-11 17:58) 

ものたがひ

C.P.さま、コメントとnice! を有難うございます。佐々木慶太郎の作品も、要チェックですね。真島町での二人暮しの後、佐々木がどこへ行ったのかは分からないのですが、高田馬場の下宿の女の子が佐伯の削った鉛筆を折っていた事を知っていたりして、わりに近くに居たような気もするのですね。下落合に居たりしないかも、ちょっと気になっています。
by ものたがひ (2011-11-11 22:28) 

ものたがひ

SILENTさま、ご訪問とnice! を有難うございました。すっごくブログをサボっていましたが、また少し書こうと思っています。^^;
by ものたがひ (2011-11-11 22:37) 

ChinchikoPapa

こんばんは。
佐々木慶太郎も、下落合にいたりすると面白いですね。
でも、誰がどこに住んでるかわからない、誰がどこに住んでいても不思議ではない落合地域ですのでw、そのうちどこかの資料で顔をのぞかせるのかもしれません。小出楢重と同様に、大久保作次郎アトリエの近くに「百姓家」を借りてたりしたら、もう笑ってしまいますね。^^;
by ChinchikoPapa (2011-11-13 19:26) 

ものたがひ

kiyoさま、こちらにもnice! を有難うございます。

by ものたがひ (2011-11-14 00:58) 

ものたがひ

C.P.さま、コメントをありがとうございます。ちょっとした伝手があれば、「百姓家」を借りられそうですね。w 高田馬場で佐伯が山手線に乗り、目白で二瓶等が乗り、池袋で山田新一が乗り…。佐々木慶太郎も、どこかから一緒になっていたような気がします。(http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-12
by ものたがひ (2011-11-14 01:08) 

ものたがひ

タッチおじさん、ご訪問とnice!を有難うございます。おじさんの大長編小説に吃驚しています!
by ものたがひ (2013-03-16 20:50) 

ものたがひ

ネオ・アッキーさま、ご訪問とnice!をありがとうございます。
by ものたがひ (2014-07-13 08:41) 

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