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池田邸の「高楼」問題

赤い屋根に鴟尾か鯱、さらに高楼がのる、かなり独特な形の家のある佐伯の下落合風景の描画ポイントとして、C.P.様の御考察により地形的に適格性のあることが認められる池田邸ですが、1950年代くらいまで、それがあったならば、その記憶が真上のお宅に暮らす御家族にあってもよいのかもしれません。しかし、現存する資料から考えて、1930年代半ば以前に「高楼」のあった家は無くなり、池田邸は記憶の彼方に消えた、という可能性もあると思います。
では、『旧・池田邸をカラー写真で観察する。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2008-02-17)のコメント欄で、言葉で説明できなかった、1936−1970頃の、空中写真やスナップ写真で見られる「旧・池田邸」の同一性について述べたいと思います。
まず、比較的明瞭な1964年の空中写真を基に、屋根の形を描き起こしてみました。

この形を拾っています。

それを、1947年にあてはめると、

1944年では、

1936年だと、

となります。
西日の強く、ぼんやりした写りの1944・1936年の写真は分かりにくいものの、屋根のあり方自体は変わっていないと、私には見えます。「突起」と見えるのは、このあたりの事ではないでしょうか。


西館の影の落ち方と、屋根の下にある庇のようなものに、日があたったり、あたらなかったりする事で、あるいは角度が変わる事で、写真の印象が大分変わるようです。でも、この東館は、少なくとも1936年以降、そんなに変わる事はなく、それ以前に、西館が「高楼」付きの平屋であったか、むしろ全体が、異なった建物であったか、という風に私は推測します。
>住宅を建て替えるとき、住民は敷地のかたちに合わせて同じような位置に、同じような形状の建物を建てるのが一般的に見られる傾向であり、
という御指摘はもっともで、池田邸の敷地にたいしては似た風情で、異なったデザインの家があったのでは、と考えるのです。そして、佐伯の描く、鴟尾か鯱がのる赤い屋根の家と、戦後の写真で見ることの出来る、緩やかな寄棟の印象のつよい家では、ずいぶん異なった好みですから、1930年代に、ここに住む事を選んだ方の場合、惜しげもなく建替えてしまったのかなあ、と思ったりします。また、佐伯が描いた時、大きな樹が南側に茂っているけれど「高楼」をチョイと造って眺めを楽しんで暮らしていた方があったのかな、とも思ったり。佐伯は、「高楼」を見つけて、なにを考えたのでしょう。


補:1947年の空中写真にみえる「突起」問題について

臙脂色の矢印の指す影のうち、左の方のものを、C.P.さまは「突起」とされているのかと思います。

しかし、それは、右の矢印の指す影と、よく似た性質のものでもあります。


屋根の描き起こしを、もう一度試みました。
本文中のものに、少し変更を加えました。それは、一部のラインを山吹色にした事です。これは庇か、地面に打ったコンクリートの部分ではないかと思います。どちらであっても、臙脂で示した屋根とは段差があります。また、1947年には、屋敷の周りの樹が、かなり茂って、家の輪郭を辿りにくくしています。それは、グリーンで示しました。
「突起」のように見える影は、屋根の斜面の途中にある出っ張りではなく、屋根の影が、庇ないし地面に落ちているのではないか、と私は見ているのです。西から光がきている1947年の写真では、その影が目立ちますが、南からの光の1964年の写真では、異なった見え方となるのでしょう。

補 その2:

目を入替えて、「煙突」を認めてみました。

しかし、太陽光に対し、似たような傾きを持つ他の面(臙脂色の影を付けた所)との、有意の差は、あるや否や?



補 その3:佐伯の作品と、空中写真にある家との不一致感について


東の鴟尾(?)と北の鴟尾の間隔が、絵のようにある為には、Aのブルーのゾーンあたりから見る必要があるように思います。北の破風が絵のように稍斜めから見えるのは、Bのゾーンあたりかと思います。「高楼」と北の破風のある赤屋根が、絵のような関係に見える為には、Cのゾーンあたりが、想定されます。この3つのゾーンが重なることは、難しそうです。
また、絵では、高楼の左手まで白い屋根の稜線が続いていますが、空中写真の家では、東の鴟尾から続く「d」の稜線が高楼の左に来ることになりそうです。
絵のような家になる為には、eの稜線がd位まで伸び、その稜線は東の鴟尾の載る稜線より有意に高く、eの南の屋根には南東に走る稜線は無く、「高楼」は、eの字の左上あたりで長辺を稜線に平行にして存在していれば、いいのではと思います。そして、絵でいえば白っぽい屋根になっている部分が、そのようなかたちであったとすると、写真に見られる後年の形になる為には、軽い改造ではなく改築がなされたと考えているのです。d-e間の稜線、南東に走る稜線、屋根全体の高さに関わる改変を、改築と感じている、ということでしょうか。赤い鴟尾の載る東と北のウイングについては、瓦の葺替えといった改装で、印象が一変するかもしれませんね。白い屋根の方の改築だけでも、大丈夫そうです。




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コメント 10

ChinchikoPapa

わざわざ、記事をアップくださり、ありがとうございました。
なるほど、家のフォルムラインを作成して、各空中写真に当てはめてみる・・・というのは、優れた方法ですね。反射の仕方や、ぼやけた家のかたちがよくまとまって、より観察しやすくなりました。
ただ、その反面で、かたちづくってしまったそのラインに、今度は目のほうが合わせて見てしまう・・・という「効果」もあるように思うのです。そしてもうひとつ、空中写真の撮影角度は少しずつズレてさまざまですが、家の線画はそれを視覚的に「まとめ」上げて同一のかたちに見せてしまう・・・という怖れもあるように考えます。もし、同じようなデザインの家に建て替えた場合、あるいは家屋全体ではなく部分的に改築・改装をした場合に、こまかな点を見落としてしまう可能性ですね。
ご指摘のように、1936年(昭和11)以前に一度、池田邸は建て替えられている、つまり佐伯が描いた邸宅は昭和初期にすでに解体されている・・・という見方もでき、またそう考えたほうが、わたしとしても「楽」なのですが(笑)、でも、空中写真を観察すると、1936年(昭和11)と1944年(昭和19)との間に、西側の建物のかたちが(線画を当てはめずに見ると)、変化してしまっている印象を受けます。
そしてもうひとつ、かんじんの佐伯のモチーフになったとみられる東側の建物ですが、屋根の水平方向への折れ曲がり角度による陰影ではなく、屋根の高さよりもなにかが突き出ている影が認められるようです。前回、わたしの記事末に掲載した1947年(昭和22)の空中写真は、ほぼ真フカンから池田邸を撮影したものでしたが、もう少し西側から写した斜めフカンの空中写真も残っています。
それを見ますと、屋根の傾斜面に設置されたなんらかの突起物のようなものが、濃い陰影によってとらえられています。これが佐伯が描くところの「高楼」なのか、あるいは大正期の「高楼」跡に造られたベランダ状のものなのかはあくまでも不明ですが、1964年(昭和39)のフラットな屋根の傾斜面にはない、なにかが載っている陰影のように思います。
またまた、記事末に比較写真を掲載してみますので、ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2008-02-23 17:56) 

ものたがひ

C.P.さま、こちらこそ、さらなる写真のアップとコメント、その上ナイスも有難うございました。空中写真をどう読むか、地図をどう読むかは、常に問題ですね。(汗)細かな検討になってきましたが、もう少し詰めてみたいと思います。
ラインの描起こしが、原形とは異なった解釈を生む恐れがあるのは事実で、昨日のラインも、細かな点では直したい所がもう出ています(爆!)。また、どの時点の姿を採るかで、部分的な改装が反映されていない事もありますね。
しかし、建物全体の大きさ・形、屋根の稜線のあり方については、1936年から変化がなく見えるため、似た位置に建った、似たような別の建物ではありえないと思うのです。ですが、西館の検討は、当面の課題ではなくなったので、見解が平行線を辿っているとしても、一寸おいておきましょうか。
そして、「高楼」という点から、東館について考えるならば、戦後の写真に見られる建物の南の屋根の方に、以前は「高楼」があったとは考えにくく、「高楼」ではなく、大きな煙突があったとも考えてみましたが、どうも、佐伯の絵と、しっくりきませんでした。ただこれは、ややラフな描き方の、この絵の場合、なんともいえない事かもしれませんが。
空中写真の「突起物」については、1947年の写真を見直しても、突起ではなく、屋根の斜面のように思います。本文末に、画像を追加して、ご説明してみました。いかがでしょうか。
by ものたがひ (2008-02-24 00:03) 

ChinchikoPapa

わたしは、建物の最外周を取り巻く部分を(上空から見て平面的に)「突き出た部分」と、表現しているのではありません。上空から見て垂直的に黒い陰影が顕著な、屋根の上の部分です。
それは、やや西側から眺めた空中写真でも色濃い陰影がとらえられており、また真フカンからみても、なにか長方形の立体物が屋根面よりやや高く起立しているように見えます。ひとつ前のコメントで、ものたがひさんは屋根の角度による陰影だととらえられていますが、1964年(昭和39)でその妙な屋根の部分はフラットな傾斜面になって、おかしな折れ曲がりの形状のままはっきりと写っていますね。まさに、その形状の屋根部分に、1947年(昭和22)に撮影された写真には、なにかハッキリとはわかりませんが構築物があるように見えるのです。これは、1936年(昭和11)あるいは1944年(昭和19)の写真にも、突起の感触としてとらえられています。
また、その大きさですが、暖炉等の煙突にしてはあまりに大きすぎるのです。ましてや、日本建築に暖炉の煙突は考えにくい想定でしょう。なにかの、大きな突起物のようです。ただし、それがそのまま佐伯が描いた「高楼」へと直結するとは限らないという思いもあります。佐伯が描いてから、1947年(昭和22)に写真が撮られるまで、20年余の歳月が流れています。以前にも書きましたように、「高楼」跡に造られた2階のベランダかバルコニー、あるいは突起状の小さな屋根裏部屋のようなものになっていたのかもしれませんが・・・。
したがって、1947年(昭和22)の2~3年後か、あるいは10年後かは不明ですが、少なくとも1964年(昭和39)までの間に、この和館の屋根は大きな修理を行っているのではないかと想定することができます。それは、米軍に接収されて米国人が住み始めたあとなのかもしれませんし、外国人の住民が入れ替わった時期なのかもしれません。そのとき、屋根全体の瓦の葺きなおしはもちろん、まだそのときにかなり傷んだ鯱(しび)が載っていたとすればそれの取り外し、そして屋根の上に組まれていた「高楼」(あるいはベランダ/物干し場?)の解体と、フラットな屋根への造り替えが行われたのではないか・・・、そのような想定をしているしだいです。
by ChinchikoPapa (2008-02-24 13:35) 

ChinchikoPapa

記事末に再び1点、突起物位置の空中写真を掲載しています。
ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2008-02-24 13:46) 

ものたがひ

本館への25日のコメントの参考画像を、「補 その2」として加えてみました。
by ものたがひ (2008-02-25 00:56) 

ChinchikoPapa

やはり、屋根の角度による陰影ではなく、なにかが屋根上に載っているように見えます。これは、戦後の「結果」的な屋根上の状態なわけですけれども、そのなにものかを設置するベースとなった、邸の強化された構造自体が、戦前から建物のこの一画には屋祢の下に存在していた・・・と考えるのが、わたしの想定です。詳細は、わたしのサイトをご覧ください。
この一画の屋根上に、なにか大きなものを載せることができる強化構造の基盤となったものこそが、佐伯が描く当初の「高楼」状の構築物ではなかったか?・・・と、わたしは想定しているのです。
もっとも、ここに写っているものは、水道タンクでもベランダでも、はたまた屋根裏部屋でもなく、大正期からつづく「高楼」そのものの残滓、あるいは改築された新しい「高楼」そのものかもしれませんが・・・。
by ChinchikoPapa (2008-02-25 11:08) 

ものたがひ

本館への25日午後のコメントの参考画像を、「補 その3:佐伯の作品と、空中写真にある家との不一致感について」として加えました。
by ものたがひ (2008-02-25 14:25) 

ChinchikoPapa

確かに、おっしゃるとおり東側に伸びる屋根のウィングの長さが、戦後の写真では短めのように思えますね。佐伯が描いた角度からすると、もう少し長めの屋根でないと、画面に描かれたようには見えないと思います。ただ、もうひとつの考え方として、戦後の写真にとらえられた東ウィングの形が大きく修正されていたら・・・という可能性も、ひとつテーマとしてあるのではないでしょうか。わたしが、屋根の葺き替えにこだわるのも、そのような意味合いからです。
なぜかといいますと、北に伸びる鯱がのる屋根(つまり佐伯が描いた正面の屋根)は、破風造りになっていますね。戦後の空中写真でも、同様の造りに見えます。ところが、戦後の東ウィングの屋根は破風のない、斜めの広い△傾斜面のある、屋根の稜線がかなり短めなデザインになっています。戦後に撮られた屋根のデザインを、そのまま前提として議論を進めるならば、佐伯が描く東ウィングの屋根は「長すぎ」、一方で佐伯画面に比べて空中写真の屋根は逆に「短すぎ」になってしまいます。
ところが、佐伯の絵をよく観察しますと、手前の北ウィングの破風屋根には鯱が載り、左手に見えている東ウィングの屋根にも、それらしいかたちの飾り立物が同様に描かれています。つまり、北ウィングと東ウィングとでは、本来は破風のある同一デザインの屋根ではなかったか?・・・という、それほど不自然ではない可能性が浮上してきます。換言しますと、改装前の東ウィング屋根の稜線は、もっと東側に突き出た意匠をして、破風の垂直面を持った、北ウィングと同様の形状をしていたのであり、鯱の位置もかなり東寄りだった・・・ということに思い当たります。
したがって、佐伯作品の東ウィングの屋根が改装前のもので、戦後の空中写真が改装後のものだと仮定すると、屋根の稜線がかなり短く造り変えられてしまっている・・・ということになります。このような屋根の葺き替えを、「改装」と呼ぶか「改築」あるいは「リニューアル」と呼ぶかは、とりあえず別問題としまして。(笑)
それから、西側の「高楼」が載る屋根のかたち、これはわたしにも整合性のある説明はできません。なぜ、この西側屋根の斜面と思われる部分と「高楼」の屋根とが白く塗られているのか(まさかニスの洗い過ぎではないでしょうが)、あるいは、なぜ東ウィングの稜線と高さが一致せず、西側屋根の稜線のほうがやや高いのか?・・・これはナゾですね。
強いて想像を言わせていただくなら、「高楼」を設けるために西側の屋根上になんらかの工作がほどこしてあり、その上に「物見」だか「高楼」が築かれていたのかもしれません。また、ひょっとするとこの「高楼」は、屋根上のテラス(?)に出られる造りになっていて、その屋根上に設置された“足場”が描かれているのではないか?・・・とも想定できます。でも、それはあくまでも仮定に仮定を重ねた上でのお話ですので、空想でしかないわけですが・・・。


by ChinchikoPapa (2008-02-27 15:43) 

ものたがひ

「東ウィングの形が大きく修正されていたら・・・」という問題は、考慮すべきでした。空中写真を見直すと、1947年には戦後スナップ写真状になっていますが、1944・1936年については、破風であった可能性を否定できません。ただ、佐伯の絵を見た限りでは、東ウイングが破風であったか、△傾斜面だったかは、不明だと思います。実際の家に対して、東ウイングも北ウイングも同じ破風のデザインにして、鯱のしっぽも同じ向きに曲げて下さい!と、個人的には思いますが。また、昭和前期の個人住宅のデザインを見ていると、△傾斜面のてっぺんに鯱が乗った、今の感覚では、ちょっと「不自然」な感じを受けるものもありますね。
しかし、鴟尾(?)が屋根の東端にあれば、「補 その3」の図のBとCの字の間のあたりに、d-eの稜線問題に目をつぶった時の、描画ポイントを設定することが可能になります。更に、南西ウイングも破風で、屋根同士の高さの関係が、描画時には違ったならば、ますますいいですね? 爆!
by ものたがひ (2008-02-27 22:18) 

ChinchikoPapa

もし佐伯の絵でも東ウィングが△屋根だったとしたら、屋根の下の建物構造からして変わっているのでしょうから、これはもう「改装」でも屋根の葺き替えでもなく、昭和初期に丸ごと建て替えられたのでしょうね。
確かに、東ウィングの屋根の鯱がソッポを向いているのは、とても気持ちが悪いです。(笑) △屋根に洋風の立て物(棟装飾)が載る屋根は、いまでも旧下落合(実は中落合)で見ることができますが、和風の鯱や鴟尾はやっぱり破風屋根が多いでしょうね。
池田邸の大正当時の写真が残っていれば、はっきりすると思うのですけれど、わたしはいまだかつて見たことがありません。

by ChinchikoPapa (2008-02-27 23:52) 

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