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番外編『亀之輔さんは、「鉛管踊り」』

別館G.M.作業室です。本日は、佐伯の描画ポイント問題を、より深く捉えるという高邁な心構えの下で(爆!)、佐伯の下落合風景の一つ、「森たさんのトナリ」で描かれた里見勝蔵の家のトナリに居た森田亀之助の(佐伯が下落合風景を描いた時期には渡欧中でしたが…)美校生時代のエピソードを拾ってみました。(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-10-24
  森田亀之輔、1883年1月東京生れ。
  1906年、東京美術学校西洋画科を卒業後、助手になる。
  1909年から1914年にかけてはバーナード・リーチのもとで、英文学・美術を学ぶ。
  海外の芸術の情報の紹介に努め、
  1925年から1927年に渡欧(この時、佐伯の世話になったという)。 以下、略。
さて、その森田亀之輔が、西洋画科第2学年だった1903年11月3日のこと。東京美術学校設立15年を記念した美術祭が行われています。岡倉天心追放の動揺を静めた後の、全校挙げての祭に、来校者は3万人。式典では諸々の神の降神があったとか(因みに祭神はというと、日本画科が狩野芳崖、西洋画科がラファエル、彫刻科が野見宿禰、鋳金科が石凝姥命、漆工科が本阿弥光悦、などなど)。展示は、各科の祭神の関連資料と、河口慧海(1903年5月帰国)招来のチベットの物品。
そして、余興の部があり、演目数にして26の仮装行列が行われています。その午後の部の一番目に登場するのが、西洋画科会員有志(辻永、森田亀之輔、山下新太郎、和田三造ら計7名)による「鉛管踊」です。

…「鉛管(絵具のチューブ)」に扮して踊った、のだそうです。ニコレットの白い小父さんのような怪しさ。森田亀之輔は、あの「鉛管」の中で「踊った」のですよね。
金山平三が美校に入学するのは、翌1904年ですから、残念ながら「鉛管踊」を見そこなった、というか、フラフラ踊りを見ずに済んだ、というべきか。しかし、他の演目の、埃及行列、巴里美術学生行列、小督、参内行列などのタイトルから予想されるリアルな力作よりも、私は、この絵具チューブのどうしようもない感じが、ちょっと好きです。謹厳な風貌の、竹澤基による『森田亀之助像』ですが、森田先生も、多方面にご活躍されていたのかもしれません。


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ChinchikoPapa

何度見ても、笑ってしまいますね。^^;
by ChinchikoPapa (2011-05-18 10:40) 

ものたがひ

C.P.さま、ご訪問とnice!を有難うございます。どうぞ、何度でも見にきて下さい。^^
by ものたがひ (2011-05-18 11:27) 

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