So-net無料ブログ作成
検索選択

仮説『くの字の道』(「くの字の塀」の巻)

別館G.M.作業室です。
8月22日に本館がupされた記事からはじまった、佐伯祐三の絵の描画ポイントをめぐる検討は、「二ノ坂」と「くの字カーブの道」をめぐる面白い展開となってきましたが、参照図版が多くなりすぎてきたので、本日は新たに、仮説『くの字の道』(「くの字の塀」の巻)、の頁をつくることにいたしました。
「くの字の塀」?また間違い?と思われるかもしれませんが(笑)、あらら、これ塀ではありませんか?というのが、今日の私の発見なのです。

仮称「くの字の塀」

別館の解釈

コンディションの悪いモノクロ写真です。C.P.さまは、「崖淵の上を走るカギ状に折れた道」と表現され、私も、昨日までは、そのように考えていました。しかし、改めて詳細に見てみると、この「く」の字の曲がった所に、丸い飾りがついた一対の門柱があるではありませんか。そうなると、これは「塀」ということになり、絵全体のスケール感覚も、少し変わってきます。
周囲の様子は判然としないけれど、正面の大きな家の手前で落ち込む地形にはなっているようです。また、正面の家から、その左の家へ向って下り坂になっているのも確実でしょう。また、塀の右側が道になっているようにも見えるものの、くの字の曲がり方から考えると、塀の左側が道で、右側は右手にある家の庭の一部と見るべきでしょうか。それにしては、塀のすぐ外、通行の邪魔になる所に、なにか大きなものがあったりします。また、佐伯は塀の中にいることになります。まるで、もう使われていない道と、廃屋となって自由に侵入してイーゼルを立てられる庭であるかのように。(爆!)

1936年の空中写真を使って、別館の描画ポイントの試案を書いてみました。ご検討下さると幸いです。



追記。

二ノ坂の階段は…

1921二の坂・旧道

1929二の坂・新道

二の坂・新旧の道

推定・事情明細図の斜面上の家=A(門を赤丸で囲む)
  (Bは「二ノ坂・遠望の岡」の左手の竹垣の家?)

推定・「くの字の塀」描画ポイント(黄色ないし薄黄色の丸)
  (C=画面中央の家の方向。D=それより下にある左手の家の方向)
  (緑の曲線は、同所の1929年地形図の等高線)

推定・画面に含まれている雛壇(描画ポイントのある斜面から透視)
  (左のオレンジの下辺のラインはDの雛壇。
   中央の海老茶の下辺のラインはCの雛壇。
   右の緑の面は、画角の右外に金山邸のある雛壇の横壁。
   黄色は二ノ坂の下に立つ電信柱?)


nice!(0)  コメント(26)  トラックバック(2) 

nice! 0

コメント 26

ChinchikoPapa

な、なんですと!? するってえと、「セメントの塀」がつづく20号の「曾宮ち(さ)んの前」の諏訪谷ではないか!?・・・と一瞬思ってしまったではないですか。(笑)
でもね、ものたがひさん、絵を拡大してみるとすぐにわかるのですが、手前の地面から塀とされるところ(わたしは縁石だと思いますが)に、だって草が生えてるんですもん。
佐伯の道路の描き方として、端を濃い焦げ茶色で塗った例は多く、これをモノクロ画像に変換すると、まるで影のように見えてしまうケースがあります。たとえば、「八島さんの前通り/タテの画」も、人が歩いておらずモノクロだったら、まるで塀がつづいているように見えてしまいます。
草の拡大と、「タテ画」のモノクロ画像を、わたしの記事下にアップしておきます。取り急ぎ、ご参考まで。
by ChinchikoPapa (2006-08-29 18:45) 

ChinchikoPapa

ちょっと待ってください。円盤状のフォルムのものを、ものたがひさんは門柱の装飾とされていますが、わたしにはそうは見えず、庭園に置かれる灯篭の笠のようにも見えますね。ということは、この縁石を境に、左の地面は1段下がっているのでしょうか?
縁石の手前は、草が生えてますので道路と同じ高度だと思うのですが、縁石が途切れるあたりに左手へと下りる道幅の狭い坂道、ないしは階段を想定しても、おかしくはないでしょうか。もし、この丸いフォルムが灯篭の笠だとすると、佐伯は誰かの庭ではなく、やはり道路にイーゼルを据えていることになります。
by ChinchikoPapa (2006-08-29 19:25) 

ChinchikoPapa

もう1点、「灯篭」の拡大画像を記事末へ追加しました。
by ChinchikoPapa (2006-08-29 19:41) 

ものたがひ

早速のコメントありがとうございます。でもね、です。右手の「草」は、手前の地面から生えている長い雑草か何かにも見えます。向うの何かは(私には草かどうか、よく分かりません)、何であれ、向こう側の地面の上のものでしょう。
「八島さんの前通り/タテの画」のモノクロ画像は、興味深く拝見しました。しかし、「タテ画」の(他の作品においても)「影」、道路の両端のゾーンの明度が低くなる表現は、おおむね縁石寄りが一番暗くなり、道の中央に向けて、明るくなっています。また、遠くで狭く、手前で広がる傾向があります。
ところが、「くの字の塀」では、「影」と日のあたっている「地面」とが、くっきり分かれています。絵全体から見て、これは中間調が飛んだためではなく、左手の高い高度から日の射す晴天の状況と思われるのです。くの字の上半分の、しっかりした形は、塀の日のあたらない面と地面に落ちるわずかな影と理解できます。くの字の下半分には何かがありますね。何だか分かりませんが、佐伯の道路の端をぐいぐい描いていくときのタッチからは生じない、何かの描写です。
灯籠との解釈は、可能な形だと思いますが、そうであっても、塀と中心線の一致した、同じぐらいの高さの灯籠が一対あるように見えてしまいます(笑)。庭か道路かの決定的な決め手は、画面中にないのかもしれません。
by ものたがひ (2006-08-29 20:31) 

ChinchikoPapa

ブログの記事を書いたとき、書き出しにこの作品は「未完のままにされたかもしれない」と書きました。その理由のひとつは、いつもの佐伯のキメ細かな描写が見られない・・・という点です。つまり、描いている途中で筆を置いてしまったのかもしれない可能性を示唆しました。
いつもの丁寧で、比較的繊細な彼の表現を見慣れてますと、風景描写のコントラストがあまりに強すぎ、細部の描写がたいへん大雑把すぎるように感じるからです。あたかも、露出オーバーの写真のような印象を受けます。
そう、もうひとつの問題として、この写真の画質はどうなのか?・・・というテーマもありますね。他の作品に比べ、本作の画像はあまりにハイトーンすぎます。つまり、かなり古い時代の写真であり細かな描写が経年で褪せてしまったのではないか?・・・という可能性も十分にありえます。
作品そのままの表現が画質の退嬰で伝えられていない、あるいはいまだ制作途中で「ハイコントラスト」な筆置きのまま、細かな描写まで完成していない・・・、いずれかはわかりませんが、他のモノクロ画像で残る作品に比べても、当作品の「完成度の低さ」が感じられます。
以上のことを前提に考えますと、「おおむね縁石寄りが一番暗くなり、道の中央に向けて、明るくなっています」という想定が、はたしてそのまま本作に成立するのかどうか、わたしには大きな疑問として残るのです。いえ、ものたがひさんは上記のように書かれますが、たとえば「富永医院」の道右端や「第二文化村の水道タンク」の道左端は、平坦にもかかわらずかなり暗い色(おそらく焦げ茶)で描かれていますよ。
この縁石(先の下り口から1段下では擁壁か?)の手前、道端に草が生えているように見える、わたしの感触は残念ですが変わりません。
by ChinchikoPapa (2006-08-29 22:39) 

ものたがひ

C.P.さま、コメント有難うございます。最新のコメントへも違うことを感じてはいますが、見え方についての議論はあまり発展性がないので、検討課題をちょっと改めたいと思います。C.P.さまが先程書かれた、「縁石が途切れるあたりに左手へと下りる道幅の狭い坂道、ないしは階段を想定しても、おかしくはない」ということを考えたいのです。
実はおっしゃることが、まだ、どうも分からないのですが、でも、私の仮定した描画ポイントにとっては、重要な意味をもちます。すなわち、もしそのような下り道があるならば、今日の記事中に載せた空中写真の、水色の線で書いた「無くなった道の推定位置」と描画ポイントの緑の中心線が出合うあたりから、画面の下方に向う道となります。これはまさに、あの「不明の道」の位置となるのです。
すると、事情明細図の「小沢邸」を「くの字」に回り込む道が、「塀」の右手にあることになります。そして、「塀」ですが、その高さ、この絵のスケール感が、問題となります。私には、冒頭の佐伯の絵にエメラルドグリーンで書き入れたような解釈をし、明らかな高さのある物、縁石のような平たい物ではない物、と思っています。しかし、その高さは、せいぜい子供が間違って転がり落ちない程度かもしれません。右手の植物との関係で、普通の塀、大人の目線が遮られる位高い塀は、想定しにくいのです。そんな変な塀が必要になるのは、左手に急な斜面があるからではないでしょうか。
絵を見る限り、左手が急峻な斜面になっていることは、確認できません。しかし、左端の方は、何かに遮られているとも、まだ描き込まれていない、ともとれるような…どうでしょうか。
by ものたがひ (2006-08-29 23:59) 

マイケル

この絵の描写ポイントに関してのコメントのがそもそも私が参加させて頂いたきっかけだったことを今更ながら思い出しました。先週末の現地再訪およびその後のCP様・ものたがひ様のご見解も踏まえ、この点についての私見を改めて述べさせて頂きます。結論から申し上げると「今更なんだよ」と言われそうですが「良く分からなくなっちゃった」が正直なところです。ですが、「にもかかわらず」以下コメントさせて頂きます。
1.ものたがひ様のご見解ですが、推定される描画ポイントからの視野の中に
あの絵の様な建物はなかったと断じさせて頂きたいのです。視野の中に広がる敷地は島津源吉氏の屋敷であり確かに戦後まで大変大きな西洋館が建っていましたが屋根の形状からしてその建物とは明らかに異なります(我が家の目の前に昭和40年ごろまで建っていたのではっきりと覚えています)。昭和の初期に三ノ坂沿いに小さな家が何軒か建ちますがそれらとも明らかに異なります。また、現地の状況からして「無くなった道」があったとのご意見には賛同致しかねます。
2.私が当初「ここでは」と思った場所に行ってみました。描画ポイントは二ノ坂を下の道(中の道というのでしょうか)から50mほど登った地点の右手にある斜面であり、それを二ノ坂と直角に少し登ったところです。そこから西方を眺めると左手下には二ノ坂が画面中央に登って行き直ぐに右に(獅子吼会の方向に)折れて斜面に立つ樹木の後ろに消えていく(樹木が無ければ三の坂への連絡路(二本ある説なら下の方)が見える筈)。大きな屋敷は連絡路が三ノ坂に突き当たる手前左角に建つ大きな和風建築のA邸かと推定しました(未確認ながら大正時代に建ったと言われています)。そう考えた時においても邸宅の裏の森の梢ラインの高さには疑問も感じておりましたが現地往訪で改めて見た同邸宅の形状が残念ながら佐伯画伯描かれるものと異なるのです。

引き続き調査を続けたいと思いますが、現時点の私の見解は上記の通り「良く分からない」となってしまいます。されに時間を頂きたいと思います。
なお、ものたがひ様より確認のご依頼ありました防護壁に沿う10mの道が壁の上か下かでありますが、それは明らかに「下」でありました。また昭和7年の
三ノ坂から西の測量図の東端には二本の東行きの道の始まりが見て取れるものが従姉妹から預かった資料の中にありました。上方の道が二ノ坂に抜けていたのか否かはカバレッジの外で読み取ることはできません。
by マイケル (2006-08-30 00:46) 

ものたがひ

マイケルさん、こんばんは。貴重なコメントを、どうも有難うございます。机上の仮説VSその場を知る方の判断、の行方は自ずと明らかです!すっきりしました。私も零から、考えてみます(笑)。
ただ、三ノ坂がいつ出来たのかは、今も気になります。地形図の等高線から考えると、1920年代に、「三ノ坂」と「無くなった道」の間に、あまり条件の違いが無い様に見えます。三ノ坂と、その両側の雛壇状の宅地の形成史が分かれば、随分このあたりの開けていく様子が、思い浮かべられる気がするのです。
by ものたがひ (2006-08-30 01:19) 

ChinchikoPapa

●ものたがひさん
確かに、道に沿った「縁石」ないしは「擁壁」の上部(「塀」とは書かないガンコさ/笑)がクランク状のところにさしかかると、何かが口を開けているように見えますが、それが下へ通じる小道あるいは階段なのか、単に縁石ないしは擁壁の切れ目なのか、さらには工事中のなんらかの未完成部の構造なのか、絵の表現からははっきりと断定できませんね。
でも、クランクのところに妙な構造物があるのは、この画面から判断する限りは確かなように思えます。その形状から想像すると、ものたがひさんの「門」には見えず、なんとなく石でできた階段の手すりのように見えなくもありません。でも、この想像はモノクロ画面の白い線を、陽光によるハイライトと想定しての判断ですから、カラー画面で見てみないと最終的にはわからない部分です。
いろいろと想像してしまいますが、カラーを見られれば(戦災で失われていなければ・・・の話ですが)、全体が茶色い土面だったりして、「あのディスカッションは、いったいなんだったんだ」・・・などということに、なってしまうような気もしないではないですが。(^^;
それから、「灯篭」のつづきですが(笑)、1段下と思われる地面で、白く映えているのは何なのでしょうね。ちょうど、「灯篭」の笠の右横上の部分です。乾いた地面か、雪か、それとも池の水面の照り返し・・・でしょうか? 想像は、はてしなく拡散していきます。

●マイケルさん
ご指摘の、「二ノ坂を下の道(中の道というのでしょうか)から50mほど登った地点」にある道というのが、わたしはいまひとつわかりません。二ノ坂の途中から、北へと入りこんだ行き止まりの道のことでしょうか? それとも、その上にある右手(東)へと折れる角が駐車場の東西の道のことでしょうか?
わたしの記事末に、1947年(昭和22)の空中写真をアップいたしました。いろいろ描きこみをしましたので、マイケルさんがご指摘の「く」の字カーブの道をお教えいただければと思います。
by ChinchikoPapa (2006-08-30 14:43) 

マイケル

CPさん
お尋ねの点につきご説明します。
「・・50mほど登った地点」ですが、CPさんのHPにUP頂いた1929年(昭和4年)の地図において、二ノ坂を「中の道」から登り始めて50mほど行った右手に赤色で階段の記号が描かれていますが、私が想定した場所は正にその階段を少し登ったあたり、イーゼルは恐らく階段から西方に数m離れたところに置かれたと推定しました。その地点には現在マンションが二ノ坂の際まで建っていますが、少なくとも私の子供のころは緩やかな(当然二ノ坂よりは急な)斜面だったように記憶しております。別の表現をすると、CPさんが特定された「27 二ノ坂(蘭塔坂)をくだる途中」の描写ポイントとほとんど同じなのだけど少しだけ横(左手)の斜面に登った位置。アングルは同絵の180度反対側と思ったのです。その位置ですと二ノ坂はイーゼルより(特に画面の左では)下に見えます。
ではありますが昨日書きました諸点の不一致から「違ってるな」と思い始めている訳です。画面の中央のカーブは、新・遠望の岡のカーブと同じ(見る方向が90度強異なる)ことになりますから描写されているものは(本当に同じ場所なら)かなり同一になる筈なのです。ものたがひさんの言われるように「くの字」のカーブに沿い塀があるとすると新・遠望とは異なる場所となる訳で私の推定はますます間違いということになります。分かりにくい表現で申し訳ありませんがお分かり頂けましたでしょうか。
by マイケル (2006-08-31 00:12) 

ChinchikoPapa

はい、マイケルさん、よくわかりました。いまとなっては、個人のお宅の敷地内であり、検証のしようのがない風景のポイントですね。1929年(昭和4)の地図には、この坂道は階段の印が描かれていますが、いま現在は普通の行き止まり坂道となってしまっているところですね。造成された当初は、坂に沿ってコンクリートのひな壇状になっていたかもしれない敷地ですが、いまは整地化が進んで当初の面影は消えているんじゃないかと思います。特に、マンションが建ちますと、地面を深く掘削してしまいますから、それまでの風情が一変してしまうことが多いですね。
わたしも、この北上する行き止まりの坂道あたりのことを言われているのではないかな?・・・と想像し、佐伯の絵の中央クランクの箇所に見える開き口は、この坂道(昭和4年には階段)へと下る口ではないのかな?・・・と、ぼんやり考えていました。つまり、マイケルさんの「西方に数m離れたところ」のイーゼル設置場所とは異なり、わたしは階段(坂道)を上りきった東方に数メートル離れたところにイーゼルを立てているのではないか?・・・と想定していました。
そう考えると、手前の地面は道路ではなく、造成されたばかりの住宅敷地で、白い擁壁の上部から見える1段下の敷地もまた、家が建設される前の住宅敷地となり、その間をぬって絵のクランク部から下へと降りられる階段が設置されていた・・・ということになりますので、つじつまが合ってくるからです。
ただし、この造成され階段のあった部分が「く」の字型に曲がっていたか否かという問題がひとつと、では正面に見えている大きな家はどなたの家なのか?・・・という問題が残ります。1926年(大正15)現在、正面の位置にあたるところに人家の記載はありません。コンクリートの擁壁が描きこまれた、1930年(昭和5)の地図に階段を記載したものを、記事末にアップしました。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2006-08-31 11:42) 

ChinchikoPapa

あっ、いまでも段数が少ないですが、北上する坂道には階段状のものが残っていたでしょうか・・・?
by ChinchikoPapa (2006-08-31 18:12) 

マイケル

申し訳ありません。説明が悪く正しくご理解頂いてないようです。
階段はちょっとだけ上り、左(西方)に外れます。 その位置は北から南へ(二ノ坂へ)傾く斜面です。当時は草木生えた斜面だったように覚えています。その斜面に立ち西を見ると左手下には二ノ坂があり、それは視野の正面に向かって上りそして右に(今の獅子吼正門方向に)曲がっていきます。曲がる手前くらいから路面は自分が立つ斜面の先の方あるいはそこに立つ樹木に隠れ見えなくなります。もしその視界を遮るものがなければ三ノ坂への連絡路の入り口が見える筈です。視界の先にある大きな日本家屋はその連絡路と三ノ坂の角に建つA邸というのが仮説でした。しかし既に記しましたように今も残るA邸の形状が問題の絵の建物と異なるためその仮説を放棄した次第です。放棄した仮説につき長々書きまして申し訳ありません。
話しは変わりますが二ノ坂・三ノ坂が時代とともに形状・位置を変えてきているとのCPさん・ものたがひさんのご見解大変面白く読ませて頂いています。地形を見る限りにおいて「それほど変わることは可能だったの」と私は思うのですがそれを証明する資料も今は持ち合わせません。引き続き色々調べてみたいと思います。
by マイケル (2006-08-31 19:22) 

ものたがひ

マイケルさん、C.P.さま、こんばんは。
私、ぼんやりしていて、すみません。図を追記してみました。マイケルさんのおっしゃる階段は、現在の住宅図の11-5番地と11-7番地の間にあるのでしょうか(赤紫の5と7の間)?A邸は13-7番地(藍色の7)?(言葉で説明するのって、大変です!)
ついでに、地形図で、二の坂がどう変わっているか、みてみました。事情明細図でいうと、三田邸の北東にあった道が南西にきたのでしょうか?!ちょっと謎です。
by ものたがひ (2006-08-31 20:34) 

マイケル

地図のアップありがとうございます。グッと説明しやすくなります。
記憶にる階段はその地図にもある11-3と5の間です。。イーゼルの位置は
紫色の「5」あるいはもう少し「7」よりだろうと推定しました。A邸は13-7ではなく道(連絡路)を隔てた南隣りです。年代的には「正に」の建物なのですが問題の絵にある家よりは細身(東から見て)なんです。。
二ノ坂のシフト?? 謎ですよね・・・。
by マイケル (2006-09-01 00:08) 

ものたがひ

マイケルさん、「くの字の塀」の新・描画ポイント案として、私マイケルさんが放棄された案(あるいはC.P.さまの案)を、やっぱり、もっと考えたいです(笑)。A邸が絵の中の家に該当しないとしても、別のもっと二ノ坂に近い家が描かれていたとしたら、描画ポイントそのものは生きるかもしれません。C.P.さまとの違いの要点は、高度の問題でしょうか。当時と今の地形の違いを慎重に考えながら、検討したいのです。
そこで、マイケルさんのコメント中で、おや?と思ったことがあります。「その位置は北から南へ(二ノ坂へ)傾く斜面です。当時は草木生えた斜面だったように覚えています。その斜面に立ち西を見ると左手下には二ノ坂があり、…」というところです。
この場所は、1929年の地形図で、コンクリートの護壁で二ノ坂沿いに囲まれながらも、中には自然な等高線があります。他の護壁内に等高線が無く、フラットな雛壇であることが予想されるのとは(一万分の一地形図に反映されない段差はあるでしょうが)、違うのです。まだ、階段も無いようです。…ここは、道沿いに護壁があっても、全体はマイケルさんのご記憶にある頃まで、草木の生えた斜面だったのでしょうか!これは、「くの字の塀」の描画ポイントのみに関わる問題ではないと思うこともあり、すごく気になるのです。
by ものたがひ (2006-09-01 11:19) 

ChinchikoPapa

まず、わたしの理解力が足りなくてすみません。階段を上り切った上部からの眺め・・・と捉えてしまいました。でも、あのあといろいろ調べてみますと、いずれの地図にも空中写真にも、擁壁の上部(階段の突き当たり)には作品のようなクランクが見られず、直線状になっているように思えます。したがって、わたしの登りきって東側からの視点・・・というのにも無理がありますね。
イーゼルを据えた視点がやや高め・・・と、以前から指摘されるマイケルさんの趣旨がわかりました。ご指摘の位置から二ノ坂のクランクを見ますと、確かに視点は高くなります。ただ、同時にもうひとつの課題として、二ノ坂の道幅が絵の道幅に比べてかなり広めという点と、道の見え方と傾斜が異なる感触・・・という問題も出てきますね。マイケルさんご提供の写真を、わたしのブログの記事末に追加いたしました。
それから、A邸につきましては以前、「目白文化村」シリーズの中でも取り上げて撮影していますが、マイケルさんおっしゃるように、作品の建物とは明らかに異なる形状のようです。二ノ坂の同所からA邸が見えたとしますと、屋根は東西に伸びている構造(南向きの造り)ですので、作品の家屋のようなフォルムには見えないと思います。
ものたがひさんも「草木の斜面」として別の切り口から触れられていますが、わたしも少し前からひっかかっているテーマとして、これだけ大規模な擁壁工事が行われているのに、「事情明細図」に書き込まれた家々はなんの影響もなく建っていたのか?・・・という問題があります。たとえば、小沢邸や音井邸、そして大正14年に建設されたとされる金山アトリエにしろ、このように傾斜面を大改造してひな壇状に整形するとき、そのままそこに建物が影響を受けずに建っていられたのかどうか?・・・ということです。これは、二ノ坂西側の津田邸や岡邸などについてもいえますね。そういう切り口から見ますと、大改造の真っ最中だった大正15年の秋に描かれたと思われる、この作品の正面に見えている家屋についても、はたして工事が終了するころまで(昭和4~5年ごろまで)建っていたかどうかわからない・・・という想像も働きます。つまり、一度この界隈は従来の住宅が消えて、ひな壇があるにせよ「草木の斜面」にもどってはいなかったか?・・・という想像です。
それから、ものたがひさんの「草木の斜面」につきましては、いろいろなことが想定できると思います。
 ①この斜面に2~3段の擁壁築造の大工事を行った主体は誰か?
 ②擁壁で区切った内部の土地を、個々に整地して分譲した主体はどこか?
①の探求はさておくとしても、もし、この大工事が周囲の地主、あるいは一部ディベロッパーの「合意」にもとづく共同事業だった場合、それぞれ擁壁に区切られて新たに造成された宅地は、②を行う場合に各地主や開発者に再配分されたあと、個々の思惑によってさらに大谷石ないしはコンクリートで細かく区分けされて整地されたり、あるいは逆に斜面のまま残されたり・・・と、いろいろなケースが考えられるかと思います。だから、いちがいに擁壁工事が終了したから、その上の地面はすべて整地されてフラットになっていた・・・とは想定できないんじゃないかと思います。
by ChinchikoPapa (2006-09-01 15:01) 

ものたがひ

C.P.さま、こんにちは。C.P.さまも「二ノ坂東斜面・くの字の塀」ポイントを放棄されるのですか(笑)?先程頂いたコメントをめぐって思ったことを記します。
まず、私は、1929年の地形図の情報から、まだ、この斜面に階段は無かった、と考えます。あるのは、カーブを描いた等高線と樹叢の記号です。二ノ坂から斜面の上の家までは、5m以上の高度差はありますが、現在の階段の印象や、三ノ坂よりは、ずっと緩やかです。また、地図や空中写真の擁壁の上部に、クランク(くの字の?)が見あたらないとのことですが、地図で直線上に示されているのは、その上の擁壁のことで、空中写真ではそもそも判別が困難なのではないでしょうか。私は、むしろ、このあたりで等高線が「くの字」を描いていることや、事情明細図の、斜面の上にあると思われる家の門が、南西角にあることに注目しています。
この斜面の、擁壁工事後の家の建ち方、謎ですね。お示し下さったいろいろな考え方、参考になりました。1936年の空中写真では、結構何かが建ってますが…。その後、マイケルさんの子供時代(?)に草木の斜面になるのだとすると、現在見えている護壁類に惑わされずに、当時の様子を考えなければいけないと感じています。
さて、佐伯の「くの字の塀」の絵が、この斜面から描かれているとするなら、私の考えでは、くの字は「二ノ坂」ではなく、斜面の上の擁壁となります(二ノ坂は真下過ぎて見えないということに…)。それが、どの程度の高さにあったかはペンディングですけれど、一応描画ポイントとして考慮できる気がしてきました。記事末に、図版を載せてみます。
by ものたがひ (2006-09-01 16:05) 

ChinchikoPapa

いえ、放棄する描画ポイントは、「北上の道」の坂(階段)を上がって最上段の擁壁の、坂をはさんで「東側から眺めたポイント」についてです。(笑)
1929年(昭和4)の「早稲田・新井1/10,000地形図」には階段の書き込みがなくても、同年の「落合町全図」にはピンク色ではっきりと記載があります。先日、「早稲田・新井1/10,000地形図」については、改訂の際に主要な公共施設や幹線道路の変更は加えられても、他は旧版を修正しないままバージョンアップされている可能性が高い・・・と、双方で納得したばかりじゃないですか。(^^; だから、階段の記載漏れは十分に考えられ、同様に四ノ坂の階段も地形図には記載されていませんね。
わたしの見ているのは翌年、1930年(昭和5)の「早稲田・新井1/10,000地形図」ですが、その時点でも二ノ坂と三ノ坂とを結ぶ南へ新たに造られた東西道の下に、家々の描き込みはありません。つまり、作品の左端に描かれた家々の屋根は、ものたがひさんの描画ポイントからしますと、同地形図をベースに考える限り、存在しないことになってしまいます。
つまり、同地図で階段が描かれていないから「階段はなかった」とされる一方で、同地図で家々が描かれていないが「この時期にはすでに建っていた」という解釈をされていることになり、わたしとしましては「ちょっと・・・」となってしまうところなのです。(^^;
by ChinchikoPapa (2006-09-01 18:40) 

ものたがひ

C.P.さま、こんばんは。1929年の「落合町全図」ですね! 私が、何故かついつい参照し忘れてしまう地図です。確かに、1929年に二ノ坂東斜面に階段があった、と考えた方が適切でした。ただ、ほんとうの問題は階段の有無ではなくて、1926年頃のこの斜面の様子です。草木の生えた斜面なのか、雛壇化した造成地なのか。
地形図の内容更新という面では、1921年は第二回修正、1929年は第三回修正で、内容が違います。追記した地図を見て頂けば、新たな測量がなされたことは一目瞭然です(でも、階段のような民間の生活関連施設は書かない)。また、目下のテーマからは余談となりますが、中の道が北寄りに滑らかなラインに変わっていたり、だから、中の道北l側の住宅地が道からすぐに立ち上がるようになったり、三ノ坂と中の道の交点の位置(になる所)が北にあがる事等が、読み取れます。
by ものたがひ (2006-09-01 22:38) 

ChinchikoPapa

いろいろと地図や空中写真を、ためつすがめつ眺めていたのですが、この絵はほんとうに中井駅北側の「ムウドンの丘」を描いたものなのか?・・・というところまで、つまりニュートラルな観察眼にもどったらどうなるだろう・・・と考えていました。たとえば、左側から光線が当たっているように見えますので、どうしても左が南だ・・・と判断してしまいがちですが、同時に佐伯の描写の筆が途中で止まってしまっているのも左側のように思えます。だから、最終的に絵の具がじゅうぶんに乗ってはおらず、右に比べてよけいに左側が明るいように見えているだけなのかもしれない・・・とか、いろいろ想像してしまいました。
たとえば、左側を南と限定しないのであれば、同じような道筋や地形を他にも見つけることができます。もちろん、大正期からしばらく時間が経過していますから、そのままの建物が建っていたとは限らず、建てかえられているかもしれませんが、似たような風景の箇所を、わたしの記事末に掲載してみました。
「く」の字カーブの道、正面の大きな建物(写真は建て替え後か?)、左手には斜面が広がり家々の屋根が下に見える点など、作品の風景とほどよく一致しています。ここも、早くから家が建てられていた翠ヶ丘の一部です。
by ChinchikoPapa (2006-09-01 23:52) 

マイケル

二ノ坂を「中の道」から登り始めて「くの字カーブ」に至る間の右手の形状ですが、私の記憶のもっとも古いものは昭和30年ごろのものです。今となっては確信と呼べるものではないのですが護壁は恐らく大谷石積みだったと思います。いつも不思議に思うのは中井周辺の大谷石の石積みがどこへ行っても同じ職人の手によるものであるがごとく同じ仕上がりなのはなぜでしょか。それはともかく、その護壁の上部ですが石積みの上縁から内に入るほどに土が盛り上がる(法面を形成)した仕上げになっていたと思います。そして法面には草木が植えられていたと記憶します(真下過ぎて見えないような形状ではなさそう・・)。法面を作る理由は雨水のすべてが護壁の内側に吸い込まれなように、別の言い方をすると護壁の上を流れ落ちるようにとの意図があった聞いたことがあります(土中の水の重さで壁が破壊されないように)。お役立つか分かりませんが記憶にあるところを記しました。
by マイケル (2006-09-01 23:58) 

マイケル

二ノ坂を「中の道」から登り始めて「くの字カーブ」に至る間の右手の形状ですが、私の記憶のもっとも古いものは昭和30年ごろのものです。今となっては確信と呼べるものではないのですが護壁は恐らく大谷石積みだったと思います。いつも不思議に思うのは中井周辺の大谷石の石積みがどこへ行っても同じ職人の手によるものであるがごとく同じ仕上がりなのはなぜでしょか。それはともかく、その護壁の上部ですが石積みの上縁から内に入るほどに土が盛り上がる(法面を形成)した仕上げになっていたと思います。そして法面には草木が植えられていたと記憶します(真下過ぎて見えないような形状ではなさそう・・)。法面を作る理由は雨水のすべてが護壁の内側に吸い込まれなように、別の言い方をすると護壁の上を流れ落ちるようにとの意図があった聞いたことがあります(土中の水の重さで壁が破壊されないように)。お役立つか分かりませんが記憶にあるところを記しました。
by マイケル (2006-09-02 00:01) 

ものたがひ

C.P.さま、マイケルさん、コメントありがとうございます。
漸く、私はマイケルさんが旧・くの字の塀描画ポイントについて、おっしゃっていたことの全体が理解できたと思います。二ノ坂東側の護壁の上の雛壇に、法面を形成する盛土があって、階段を少しだけ登って草木が生えている、その盛土の上に立ち、西の方にある二ノ坂見下ろし、更にその向うの雛壇(斜面)を見ると、幾つかの点で佐伯の絵によく符合してくる、しかし、はっきりした不一致点もあった…。
不一致点のうち、くの字の塀が「新・遠望の岡」の絵にないという点は、まさに開発中の時期であれば、描画時期のズレとして理解も可能かもしれません。中央の家の問題も別解が可能だし、また、私には画面左下の様子がちょっとピンとこないですが、それも未完だったためとも考えられます。しかし、マイケルさんが初めから気にされていた三ノ坂の斜面が反映されているか、という点は、この高度の場合、画面右手において、確かに矛盾点となってくると思います。
私の、新・推定点はこの矛盾をクリアするために、もう少し高度を上げた、といえます。ただ、現実にクリアできるのかは、未確認というか、確認困難なのでしょうか。
(中井周辺には、大谷石の石積みの上に草木を植えた法面の土手仕上げが多かったというお話、わぁ、そうだったのですか!です。まだ、大谷石は時々見かけますが、ゆったりした法面は、ほとんど無くなって切立った印象になってしまったような…。美しい雛壇が思い浮かんできます。)
C.P.さまの、まったく発想を変えてみる、というニュートラルな視線、必要ですね! 私も、「旧・くの字」の描画ポイントを放棄して零の立場に立った筈でしたが、気に入った場所近辺では、複数のポイントから絵を描く佐伯の傾向を考慮し、この「二ノ坂・東斜面」ポイントに、可能性があるのか無いのかを、出来るだけ考えてみました。「推定・画面に含まれている雛壇(描画ポイントのある斜面から透視)」が、成立するのか、しないのか…。別の場所に描画ポイントがあるとしても、絵の中の雛壇・斜面と、イーゼルを立てた場所の高度が同時に問われる難しいポイント(あるいは逆に特定し易い?)に見えてきました。
by ものたがひ (2006-09-02 07:35) 

ChinchikoPapa

マイケルさんの書かれている大谷石の築垣の件、わたしも気になっていまして、「ディベロッパー」と表現していましたが、はっきり申し上げると「箱根土地」そのものではないかと考えていました。大正14~15年ごろというと、目白文化村の販売をそろそろ終えようとしているころですので、次に中井駅北側の丘を・・・と考えても、なんら不思議ではないですね。大規模な大谷石による擁壁の設置は、周辺の地主たちをも巻き込んだ、箱根土地による仕事ではなかったかと考えられます。
ただし、用壁工事が行われた斜面の、すべての土地を箱根土地が所有していたとは到底思えませんので、地主たちを含めた大掛かりなアライアンス事業ではなかったかと想像します。ちょうど、第一文化村の未買収の土地(中央テニスコート付近)にも、箱根土地によって手が入れられたように・・・。その後、経年によって、一部の擁壁が大谷石からコンクリートに差し替えられていますので、わたしは現状から見て当初はコンクリート、のちに家々が建てかえられたときに大谷石・・・と考えていたのですが、どうやら順序が逆だったようですね。最初から文化村と同様に、この丘全体が大谷石によって大改造され、あとから個別の敷地によってはコンクリートの擁壁あるいは築垣が行われた・・・ということのようです。
ニノ坂の「遠望の岡?」は、新しい描画ポイントでまず間違いないと思いますが、「く」の字カーブは、ものたがひさんもおっしゃるように、もう一度頭をニュートラルにして考えてみる必要がありますね。こちらは、継続検討にする・・・ということでいかがでしょう?
by ChinchikoPapa (2006-09-02 19:14) 

ChinchikoPapa

やっぱり、佐伯祐三と『下落合風景』へ興味を持たれる方は多いらしく、ビジター数があっという間に300人を超えてしまいました。リピータも含めた純粋アクセス数(ヒット数)だと、この何倍になるものか・・・。佐伯作品は、やはりすごい人気ですね。中村彝の記事が隠れてしまいそうです。
by ChinchikoPapa (2006-09-03 00:33) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2

この記事のトラックバックURL:
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。